園長先生のつぶやき

心に思うこと、その時感じたことをそのまま綴る、園長の徒然日記です。

2026年03月11日

今日で東日本大震災から15年が経ちました。

15年も経ったのか…と「15年」という数字だけを見るとそう感じますが、私の中ではついこの間のことのように、その日の記憶が鮮明に残っています。

震災のあった2011年。私はこの職場におり、教務主任という立場でした。地震が起こった時間はちょうど降園後で、帰宅した子もいればスクールバスに乗って帰宅途中だった子、次の便のスクールバスを待って遊んでいた子など様々でした。園内に残っていた子は全体の半分以下だったと記憶しています。

あの大きな地震がきた時、私は職員室にいました。かなりの揺れに大人でも立っていることがままならないほどの大きな揺れだったことを覚えています。当時教頭だったA先生はそんな揺れの中、必死で非常放送設備までたどりつき、子ども達に向けた緊急放送をかけていました。当時の園長もあの大きな揺れの中、教室に向かっていました。廊下の壁をつたいながら一歩一歩踏みしめるようにかなりの大股歩きで、しかし体からは一刻も早く教室の中にいる子ども達の様子を見に行かねば…という緊迫感がにじみ出ていました。そんな園長や教頭の姿を見て、私も子どもの命を守るために行動に移さねば…と思った光景を、昨日のことのように覚えています。教頭が子ども達に向けて呼びかけていた放送機器もすぐに電源が落ちてしまい、放送が届かなくなってしまったので、そのあとすぐに教室をまわったり外で遊んでいる子ども達に声をかけ皆で園庭に避難したりしました。

室内にいた子ども達は揺れに驚いて怖がって泣いている子もいましたが、外で走りまわっていたりブランコをこいでいたりした子ども達の中には、実際地震に気が付いていなかった子もいました。先生たちが真剣な怖い声で避難を呼びかけ、それで何事が起ったのかわからず泣く子もいました。

その後、小雪の舞う中、ビニールシートを敷き、子ども達の上着を取りに教室に戻り、子ども達と寒い中、シートで身を寄せ合いました。

幸い、園自体、壁が崩れたり窓ガラスが割れたりなどの被害はなく、各クラスのピアノが少し動いていたり水槽の水がこぼれていたりした程度でした。園の中で一番被害が大きかったのは、先生たちの机の上のものが散乱し、本棚の書類や様々な機器が山積みの職員室で、子ども達の保育室に被害がなかったのが何よりでした。

揺れが収まった直後くらいだったでしょうか、だいぶ早い段階で主人からも電話が入り、お互いの安否の確認はできましたが、ほかの家族の安否確認はまだできない状態でした。

子ども達を集めた後は夕方に差しかかってきたこともあり、だんだん気温も下がり寒さが厳しくなってきたので、園に戻ってきたスクールバスを園庭に入れ、エンジンをつけて暖を取りました。当時は非常食などの備蓄をしておらず、預かり保育用に買っていたおやつを子ども達に配って、おうちの人の迎えを待ちました。

おうちの人のお迎えを待つ間、少し心に余裕が生まれると、自分自身にも当時9歳の娘がおり、ふと、我が子が今どうなっているか、急に心配が募りました。その日はちょうど学校が短縮授業の早帰り日。いつもなら学校近くの児童センターに行っているはずですが、この日は早帰りの日だからと、たまたま友達の家に遊びに行くと言っていた日でした。

普段から、短縮授業は何時に終わるのか、何時頃に学校を出るのかなど、全く把握していなかったため、せめて娘がどこにいるのか所在だけでも知りたかったのですが、職務もあり、なかなか自分のことが切り出せない状況でした。気づけば、あたりも真っ暗になっていたので、保育所に子どものいるS先生と二人で、一度子どもを迎えに行かせてもらいました。今我が子はどこへいるのだろうか、学校?お友達の家?それとも自宅に帰って一人でいる?…考えれば考えるほど、気が焦り、鼓動が早まり、その時の心配による胸の高鳴りはこれまで経験したことのないものでした。

幸い、地震発生時はまだ学校にいる時間だったようで、学校の体育館に先生と一緒に避難をしていました。生徒はもう数える程度しか残っておらず、体育館のほとんどが、避難してきている方たちで埋め尽くされていました。娘の姿を見た時は、本当に胸をなでおろしたのと同時に、迎えに来るのが遅れてしまい怖かっただろうなと本当に申し訳ない気持ちとでいっぱいでした。その足で実家により、両親の安否を確認し、いったん自宅に立ち寄り、また職場に娘を連れて戻りました。

娘は私が心配していたほどの様子はなかったものの、「ママはめるへんにいるから大丈夫だと思っていたけど、先生たちが聞いていたラジオで、海に大きな津波がきているって言っていて、パパが大丈夫かすごく心配だった。」と言っていました。当時塩釜勤務だったこともあり、海の近くの職場ということは娘も知っていました。先生たちにそのことを話したようで、大丈夫かラジオを一緒に聞かせてもらっていたけれど、途中から怖くて聞けなかった…と話していました。電話で話したから大丈夫だよと伝えると、安心して、めるへんの子ども達と一緒にスクールバスで暖を取り、おせんべいを食べました。娘もそのことは今でも覚えているようです。

その年の数日後に予定していた卒園式はPTAの代表の皆さんと話し合い、延期に。そして小学校に上がった1年生の夏休みに数カ月遅れの卒園式を行いました。3月に行ういつもの卒園式で飾るたくさんのカラフルな花鉢は、夏ということもありモンステラやハイビスカスなど、夏の花たちで彩り、いつもとガラッと雰囲気の違う卒園式になりました。卒園して数カ月経ったにもかかわらず、当時の子どもたちは卒園式で歌う予定だった歌や披露する言葉などを全て覚えており、私たちを驚かせました。服装は自由。しかしほとんどの子ども達が幼稚園の制服を着てやってきました。皆、制服がピチピチで窮屈そう、そしてスカートやズボンの丈も短くなっており、子ども達の成長をとても感じた瞬間でもあり、本当に忘れられない涙の卒園式になりました。

 

たくさんの被害のでた東日本大震災。

当園でもこの震災を教訓にし、備蓄品の保管、物の固定、非常時のマニュアルの見直しなどを行ってきました。そして避難訓練の重要性を、子ども達にも若い先生たちにも伝えています。時代が流れ、震災を経験したことがない人も増えていきます。しかし、教育現場でできること、一人の人間としてできることをこれからも考え、伝えていきたいと思っています。

 

 

園長   伊勢 千春

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