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    <title>園長室から～園だより</title>
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    <updated>2012-02-14T07:36:20Z</updated>
    <subtitle>めるへんの森幼稚園の亀谷園長がお送りするお話集です。</subtitle>
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    <title>水路造り</title>
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    <published>2012-02-14T07:35:25Z</published>
    <updated>2012-02-14T07:36:20Z</updated>

    <summary>                                                園長　　亀　谷　芳　彦 　このところ、日本列島は例年にない大雪と寒波に襲われている。特に日本海側の豪雪地...</summary>
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        <name>亀谷芳彦</name>
        
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        <![CDATA[<p>                                                園長　　亀　谷　芳　彦</p>

<p>　このところ、日本列島は例年にない大雪と寒波に襲われている。特に日本海側の豪雪地帯では、生活への様々な影響を受けていることが伝えられているが、中でも高齢者世帯での、分厚く積もった屋根の雪下ろし作業は深刻な問題になっているようだ。<br />
　そんな日本海側地方の深刻さに比べればまだ楽なのだろうが、太平洋側も例年よりは雪の量は多く寒さの厳しい日が続いている。おかげで、めるへんでは、今年はタイヤ階段のそり滑りもたくさんできたり、これまでにない大きさのかまくらも作れた。<br />
　ただ今年の特徴は、特に先週の最初の大雪の後は、日中は太陽のでる晴れ間が多く、夜になると冷え込みが強くなるということの繰り返しという印象が強い。そのために、園庭の土は、朝はがちがちに凍っているが、昼過ぎには氷が溶けて田んぼ状態になる。そして夜になると冷え込んで凍った土の上に新たな雪が積もっている、そんな繰り返しの１週間であった。<br />
　子どもたちの中には、朝登園すると、教室に入る前に、園庭の足跡にできている氷を足で割って歩くことに夢中になっている子もいる。また、放課後になると、お迎えやバスを待っている子たちが泥田状態の園庭を駆け回ったり、スコップで園庭のあちこちに穴を掘って泥コネをしている。また、水たまりにわざとジャンプをして泥水を跳ね上げ、お迎えに来ているお母さん方に悲鳴を上げさせている子も多い。<br />
　ところで、今年は雪が多いせいか、日中溶けてできる水たまり、そしてその水の量が例年に比べると非常に多い。そのために、これまでの冬場には考えられなかったが、萱場さんを中心に園庭に水路を造って水を流すようにしている。そんな作業は、雪や氷が溶けて、園庭の土が柔らかになってからやるので、子どもたちが遊んでいる昼休みや放課後の時間と重なってしまう。子どもからすれば、目の前で大人がそんなことをしていれば興味を持たざるを得ない。早速お手伝いが始まる。お手伝いといっても、年少児あたりは、水が少々広がった湖に島を作ったり、穴を掘ったりと単純な泥遊びであるが、年長児くらいになると、一応水を流すということは意識する。<br />
　しかし、子どもたちは、私たちがせっかく造った水路に無神経に入ってくるので、水路の底に足跡が付き、その部分が深くなることによって水の流れが悪くなったり、足で水を下流に押し出そうとするので、そこに土砂がたまって流れが止まってしまったりする。また、上流に流れを作ろうとするのだが、スコップで深く掘りすぎるために水が逆流してしまうこともしょっちゅうである。<br />
　このように、子どもたちのお手伝いはありがた迷惑ではあるが、しかし、無造作に泥遊びをしているかのような子どもたちでも、その様子を見ていると、明らかに工夫はしている。何ヶ所かの水たまりの間をつなごうとする場合にも、水の流れを作ろうと試行錯誤する姿は見られるし、また誰かが不適切な作業で水の流れを止めてしまうと、「水が止まったじゃないか」「何でそこに土をおくの」などと、ほかの子から言われることもあり、子ども同士の葛藤も起きるし、失敗した箇所の修復をしようとする姿も生まれる。ただ好き勝手に遊んでいるような泥遊びでも、「水が流れるようにする」という子どもなりの目標を持てば、自ずと自律的で知的な活動になる。非常にささやかな場面ではあるが、子どもの成長というのは、こういったところからも生み出されるのだろう。<br />
　作業を請け負っている私たちとしては、「こら、そこに入るな！」「そこを掘っちゃ、だめだ！」と怒鳴りたくなるが、そこはその言葉をぐっと飲み込んで、我慢するほかはない。<br />
　しかし、ここでなぜ、子どもたちのそんな活動を「温かく見守る」のではなく、「怒鳴りたくなるのを我慢する」のかというと、園庭一面に点在する水たまりをつないで水の流れを作るのは、私にとっても楽しい創造的行為だからだ。つまり、本音を言うと、全体を見通して工夫しながらスムーズな水の流れを作ろうとする私自身の創造的活動を子どもたちにじゃまをされたという気持ちが心の片隅にはある。こうなると子どもみたいなもんだが、「我慢する」だけ大人なんだろう。水遊び、しかも流れを伴った水遊びは、高齢者である私のような者まで子どもに還す。<br />
　泥田で、一生懸命遊んでいる子どもたちの姿を眺めながらも、教員たちは、大量にある砂場セットのものすごい汚れに、「アーァ、きれいに洗うのが大変だ」とため息をつきながらも、めるへんの園庭は、子どもたちにとって貴重な環境だと考えている。</p>]]>
        
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    <title>「銀の匙」から思うこと</title>
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    <published>2012-02-03T01:15:06Z</published>
    <updated>2012-02-03T01:16:20Z</updated>

    <summary>                                                  園長　　亀　谷　芳　彦 　 　私は前回、東大受験校で有名な私立灘校の名物先生、エチ先生こと橋本武先生...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.meruhen.ed.jp/blog/">
        <![CDATA[<p>                                                  園長　　亀　谷　芳　彦<br />
　<br />
　私は前回、東大受験校で有名な私立灘校の名物先生、エチ先生こと橋本武先生の実践を紹介し、本当の学力を身につけるということはどんなことかということへの私見を述べた。<br />
　私は、これら橋本先生の実践を紹介した著書に接したのを機会に、彼が教材とした中勘助の「銀の匙」を初めて読んでみた。この著作は、中勘助の自伝的小説とされ、主人公は「私」であり、私の名前は□□で表され、そして、幼少期には□坊が訛って□ぽんと自称していた。□□は何でもいい。たとえば、芳彦であれば、周りからは芳坊と呼ばれ、自分では口の回らない時期に身に付いたヨシぽんという呼び名をそのまま使っていた、ということだろう。<br />
　この小説は、幼年期から少年期におかれた□ぽんの環境と周囲の人たちとの関係、その関わりの中での心の機微と成長の様子が鮮やかに描かれていて、一気に読み通した。<br />
　幼児期には、育ててくれた伯母さんへの甘えや我が儘、病弱な幼児が子ども社会で受ける扱いなど、その姿を通して、その時々の気持ちや心理が描かれる。また、小学校生活のなかで経験する自信や挫折、仲間はずれにあったり、自虐的心情や淡い恋心など、少年期の心の揺れのリアリティが印象に残る。<br />
　さらに、全編を通して主人公の幼少期、つまり明治時代の街中の風景や歳時記が情緒豊かに描写されていて、その繊細な表現は、正に輝くばかりだ。そして、幼少期から青年期にかけて、少年の成長の姿や心の機微、社会的背景や当時の風俗を描いたものとして、下村湖人の「次郎物語」にも比する作品だと感じた。<br />
　「銀の匙」は、大正元年に新聞小説として書かれた。文庫本になったのは１９３５年（昭和１０年）。１００年間も読み継がれている名著である。<br />
　その中で、おやっと思った文節があった。<br />
　「それはそうと戦争が始まって以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちゃんちゃん坊主でもちきっている。それに先生までが一緒になってまるで犬でもけしかけるようになんぞといえば大和魂とちゃんちゃん坊主をくりかえす。私はそれを心から苦々しく不愉快なことに思った。～ある時また大勢がひとつところにかたまってききかじりの噂を種に凄じい戦争談に花を咲かせたときに私は彼らと反対の意見を述べて　結局日本は支那に負けるだろう　といった。～」（傍点は亀谷）とある。私が「おやっ」と思ったのは、こんな表現が昭和１０年の頃に認められたのだろうかという疑問が起きたのである。ここでいう戦争は日清戦争のことであるが、この文庫本が発行された昭和１０年は支那事変前夜、軍国主義の風潮が日本社会に広がり始めた頃である。<br />
　ところが、この本の後付をみると、「１９９９年５月１７日改訂第１刷発行」とある。調査をしたわけではないので推測でしかないが、昭和１０年に文庫本として発行されたときには、大正元年には載っていたこのような表現は検閲にあって削除され、１９９９年（平成１１年）に改訂発行されたときに原文が復活したのではないかと考える。新聞に発表された大正元年は大正デモクラシー・自由主義が謳歌された時代であり、戦時色が出てきた昭和１０年との表現の自由度の違いを考えたとき、その推測もあながち間違ってはいないだろう。<br />
　昨年末、司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」がテレビで放映されていた。このドラマは、確か第１部が２年前、第２部が一昨年放映され、今回は第３部として４週にわたって放映されたのである。まさに大河ドラマだ。<br />
　このドラマの原作である小説「坂の上の雲」は、秋山兄弟や正岡子規を主人公として、明治維新第二世代の若者たちが、新しい日本の発展に意気を持って関わっていく姿を描いたもので、戦後高度成長期に日本の経済成長を支えてきたサラリーマンたちに共感を持って読まれていた。<br />
　今回の第３部は、日露戦争が舞台である。日本騎兵の創設者と言われる秋山好古が、勇猛なロシアのコサック騎兵を破る話や、乃木大将による二〇三高地攻略、秋山真之を参謀とする東郷元帥の日本艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破し、日露戦争を終結させるまでを描く。<br />
　このようなドラマをそれなりに身を入れて見ていると、ついつい日本の近代化を支えてきた若き群像の活躍に共鳴し、日本軍の戦果に安堵感を持つ。しかし、小説やドラマでの戦闘場面には胸を躍らすが、実際の戦闘場面は悲惨であった。二〇三高地攻略戦も、当時は大成果として喧伝されていたが、実際には無謀な突撃の繰り返しで、何万という兵士が無為に犠牲になったという。私の母の叔父に日露戦争の生き残りがいて、幼い私も、その大叔父の持ってた勲章や襟章で遊んでいた記憶がある。そして、彼の頬には砲弾の破片で受けたという傷跡があったのを鮮明に覚えている。<br />
　ドラマ「坂の上の雲」の最終回は、日本海海戦の戦闘が中心に描かれているが、その中で戦局とは関係のない一つの場面が挿入されていた。それは、正岡子規が逝去した後でも、子規堂には彼を慕う文人たちが集う。そこに現れた夏目漱石の台詞、<br />
「我が輩は、大和魂に欠けておる。だから最近は、大和魂に出遭うと、道をよけている」「誰も口にしないが、誰も（大和魂を）見たものはいない。誰も聞いたことはあるが、誰も逢ったものはいない。大和魂はどんなものかと聞いたらば、大和魂だと答える。エヘンと言ってから、エヘンという声が聞こえた」<br />
そんな漱石の言葉に対して、子規の妹律が、秋山兄弟たちが今戦っているのに、そのような物言いは残念だということを、控えめな態度で抗議をする。その場は漱石が律に謝って収まるという筋立てになっていた。<br />
　ただ、私が昔読んだ小説「坂の上の雲」では、このような場面の記憶はない。本棚から引っ張り出してパラパラめくってみたが、探すことはできなかった。この場面が、司馬さんの他の小説の中に出ているのか、それとも脚本家の創作なのかはわからないが、ドラマの中では漱石を戦争に沸き立つ風潮や世論に違和感を持っている人物として描こうとしているのは間違いないだろう。<br />
　漱石は正面切って戦争を批判したのではないだろうが、彼の作品「三四郎」には次のような表現がある。東京帝大に入学が決まった三四郎が九州から上京する汽車の中で、隣席の爺さんが女の身の上話を聞いている風景、<br />
爺さんは蛸薬師も知らず、玩具にも興味がないと見えて、始めのうちは只はいはいと返事だけしていたが、旅順以後急に同情を催して、それは大いに気の毒だと云いだした。自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとう彼地で死んでしまった。一体戦争は何の為にするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない。世の好い時分には出稼ぎなどと云うものはなかった。みんな戦争の御陰だ。　また、三四郎と乗り合わせた男との会話。<br />
「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、～」と云って又にやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃない様な気がする。「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。－熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲ぐられる。わるくすると国賊取扱いにされる。三四郎は頭の中の何処の隅にもこう云う思想を入れる余裕はないような空気の裡で成長した。<br />
漱石が「三四郎」を著したのは、日露戦争が終わって数年後の明治４１年である。このような表現に接すると、やはり漱石は、当時の戦争賛美の社会的風潮からは少し離れた位置で日露戦争を見ていたのだろう。<br />
　「銀の匙」も「三四郎」も、明治末から大正に発表されている。日露戦争後とあって、民族主義や大和魂を謳歌する風潮はあったのだろうが、このころから大正デモクラシーに向かう機運は出てきて、表現の自由や批判的な発表も許されていた、ということだ。<br />
　与謝野晶子が旅順港包囲軍の中にある弟を嘆いて詠んだ　「君死にたまふことなかれ」　　　<br />
あゝをとうとよ、君を泣く、　君死にたまふことなかれ、　末に生れし君なれば　親のなさけはまさりしも、<br />
親は刃（やいば）をにぎらせて　人を殺せとをしへしや、　人を殺して死ねよとて　二十四までをそだてしや。</p>

<p>堺（さかひ）の街のあきびとの　舊家（きうか）をほこるあるじにて　親の名を繼ぐ君なれば、<br />
君死にたまふことなかれ、　旅順の城はほろぶとも、　ほろびずとても、何事ぞ、　君は知らじな、あきびとの<br />
家のおきてに無かりけり。</p>

<p>君死にたまふことなかれ、　すめらみことは、戰ひに　おほみづからは出でまさね、　かたみに人の血を流し、<br />
獸（けもの）の道に死ねよとは、　死ぬるを人のほまれとは、　大みこゝろの深ければ　<br />
もとよりいかで思（おぼ）されむ。</p>

<p>あゝをとうとよ、戰ひに　君死にたまふことなかれ、　すぎにし秋を父ぎみに　おくれたまへる母ぎみは、<br />
なげきの中に、いたましく　わが子を召され、家を守（も）り、　安（やす）しと聞ける大御代も<br />
母のしら髮はまさりぬる。</p>

<p>暖簾（のれん）のかげに伏して泣く　あえかにわかき新妻（にひづま）を、　君わするるや、思へるや、<br />
十月（とつき）も添はでわかれたる　少女ごころを思ひみよ、　この世ひとりの君ならで　あゝまた誰をたのむべき、<br />
君死にたまふことなかれ。</p>

<p>日露戦争最中に読まれ、天皇批判まで含まれたこの詩は、当然世論からの批判は受けたが、官憲からの弾圧や法的制裁を受けたという話は聞いていない。これも、司馬遼太郎さんが言う「明治のおおらかさ」なのだろう。この明治のおおらかさから引き続く大正期には、新教育運動や児童文化も花を開かせる。<br />
　しかし、昭和１０年以降、日中戦争を経て第二次世界大戦に至る日本は、この「おおらかさ」が完全に失われていくという。これも司馬さんの史観である。　　</p>]]>
        
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    <title>新年に思う</title>
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    <published>2012-01-12T07:29:00Z</published>
    <updated>2012-01-12T07:30:26Z</updated>

    <summary>                                                園長　　亀　谷　芳　彦 　明けましておめでとうございます。今年のお正月は暖かで穏やかな三が日を過ごすこと...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.meruhen.ed.jp/blog/">
        <![CDATA[<p>                                                園長　　亀　谷　芳　彦</p>

<p>　明けましておめでとうございます。今年のお正月は暖かで穏やかな三が日を過ごすことができました。それぞれのお宅でも、充実した新年をお迎えのことと思います。<br />
　元旦の朝、ずっしりと重い新聞を手にした。初売りの広告はさておき、いくつかの紙面を眺めて、今年は例年とは違うものを感じた。例年元旦の紙面は、それぞれの新聞社が今年１年の課題や未来の課題を特集するが、その特集の内容は、時に宇宙開発であったり、平和の問題であったり、教育や経済であったりする。ところが今年は、私が目にした３紙とも、それぞれの新聞社によって取り上げるスタイルは異なるにせよ、すべてが「原発」にかかわるエネルギー問題を取り上げていた。<br />
　その中で、「再考　エネルギー」のテーマで、経団連会長の米倉弘昌さんと哲学者の梅原猛さんが対論の形で論陣を張っていたのが目に付いた。<br />
　米倉さんは、「将来原発に頼らないのが理想」ということを前提にしながらも、再生可能エネルギーの不安定さや経済活動の維持、あるいは経済の成長を考えた時には当面原発の稼働は必要という立場をとる。確かに、昨年の原発事故以来、電力不足が懸念され、節電が叫ばれてきた。市民生活上、表向き何とか乗り切ったという印象はあるが、法律で節電を義務付けられた中小企業も含めた工業生産の現場は相当のダメージを受けているということも、時々報道されていた。このようなエネルギー不足から企業活動が縮小されれば、雇用問題が起こり、失業者が増えるということが起きる可能性は否定できない。そういった状況からは、米倉会長の主張もうなづける。<br />
　一方、梅原さんは文明論として提起する。地震や津波は「天災」、原発も含め危機への対策を怠ってきたのは「人災」、そして原発の事故はエネルギーを原子力に頼るという「文明の災害」であると定義する。梅原さんは、過去何万年という人類の歴史は、「木」や「石油・石炭」という動植物を源とする自然エネルギーによって文明の発達を成し遂げてきた。しかるに、科学の発展が自然を支配することができるというデカルト以来の哲学が、人間の力を超えたエネルギーである原子力への幻想を作り上げてしまった。しかし、原子力は結果として悪魔のエネルギーであったと言う。そして、今後の在り様としては、「自然との共存」という思想にかえり、再生可能エネルギーの開発と、消費文明の見直しが必要だと主張する。これまた、大いに共感するところだ。<br />
　一見お二人の立場は対極にあるような設定ではあるが、共通した認識を見出すことができる。米倉さんは、「将来原発に頼らないのが理想」「短期的には原発の稼働は必要だが、中長期的には再生可能エネルギーをもって置き換えることは可能」と言い、梅原さんも、「一部の人は原発容認を言っているけれど、１０年、２０年の対策としては必要だとしても、脱原発は歴史の必然です」と言う。つまり、梅原さんも、今日明日にでも原発をストップさせろということを言っているわけではなく、再生可能エネルギーの開発に大きな予算をつけるとともに、短期的な対応としては原発の利用はやむを得ないという立場なのだろうと考えられる。<br />
　これまでの日本のエネルギー政策は、原子力ありきを前提に、一部の該当自治体に交付金というニンジンをぶら下げて進められてきた。そしていつの間にか、日本は世界第三位の原発大国にまでのし上がっていたのだ。このような重要な国民的課題を、小手先の手法で政策推進するのは民主主義の姿からはほど遠い。原発は、廃炉にするにしても時間がかかる。短期的、中長期的な見通しと対策は必要だと思う。そして何より、今後日本国民が拠って立つ哲学をどう確立するかということが大事である。それによって、国民の生活意識や生活スタイルも変わっていくのだから。<br />
　今年こそ、いたずらに対立と無策に時間を費やすことなく、全国民の、なかんずく子どもたちの安全安心な生活が保証される社会の建設を目指すスタートの年になることを期待したい。</p>]]>
        
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    <title>橋本武先生―本当の学力―</title>
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    <published>2011-12-19T00:00:24Z</published>
    <updated>2011-12-19T00:01:30Z</updated>

    <summary>                                                  園長　　亀　谷　芳　彦 　 　最近出版された３冊の教育関係書を読んだ。一つは「奇跡の教室　エチ先生と...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.meruhen.ed.jp/blog/">
        <![CDATA[<p>                                                  園長　　亀　谷　芳　彦<br />
　<br />
　最近出版された３冊の教育関係書を読んだ。一つは「奇跡の教室　エチ先生と『銀の匙』の子どもたち（伊藤氏貴著）」というタイトルで、もう一冊は「灘中奇跡の国語教室　橋本武の超スロー・リーディング（黒岩祐治著）」。両著とも東大受験校で有名な神戸の灘校の名物国語教師橋本武先生について、先生の授業について書いている。なお、後者の著者は、現神奈川県知事黒岩祐治氏である。そしてもう一冊が「灘校･伝説の国語授業」で、橋本先生が自ら著したものである。<br />
　橋本先生は１９１２年生まれとあるので、現在９９歳におなりになる。２１歳で、新設旧制灘中学校に赴任し、戦前・戦中・戦後と５０年間教鞭を執られた。創立された頃は、神戸一中（野坂昭如「火垂の墓」の主人公清太が在籍した学校）の滑り止め的な私立学校であった灘校は、戦後、中高一貫校になり、東大合格者日本一を達成し、今や誰でも知る名門校になっている。その立役者になったのが橋本武先生だという。<br />
　有名受験校に対する我々のイメージは、授業は受験対策に特化して、詰め込み教育とそれに耐え得る精神主義的な努力を求めているというものだが、橋本先生の授業は、そんなイメージとは全くかけ離れている。<br />
　灘校のシステムでは、一つの学年をそれぞれの教科の教師が６年間受け持つのだそうだ。つまり生徒たちは入学すると、中学１年から高校３年まで、それぞれの教科を受け持つ担任団によって６年間指導を受けることになる。<br />
　そのようなシステムの中で、橋本先生は教科書を一切使わず、『銀の匙』という２００ページ程度の岩波文庫を教材として、中１から中３までの３年間読み込む。<br />
　『銀の匙』は、作家・中 勘助によって、明治時代に書かれた自伝的小説であるが、病弱な幼少期を過ごした主人公の心の葛藤や、当時の風俗や情景が繊細な表現力で描かれている。<br />
　橋本先生の授業は、読解したり暗記したりするだけではない。先生自ら「スローリーディング」とおっしゃるように、一冊の小説をあらゆる角度から読み込んでいく。先生は、自らの授業の指針として、①寄り道をする　②追体験をする　③徹底的に調べる　④自分で考える　を挙げる。<br />
私は毎朝はやく起こされて草ぼうぼうとしたあき地を跣で歩かされる。ぺんぺん草や、蚊帳つり草や、そこにはえてる草の名をおぼえるだけでも大変な仕事である。（「銀の匙」）といった文章に出逢うと、その中の「ぺんぺん草」という言葉を取り上げ、「ぺんぺん草はナズナの別称である」ことから始まり、春の七草や秋の七草に関わる風習や、百人一首の光孝天皇の歌「君がため　春の野に出でて若葉つむ　わが衣手に雪は降りつつ」にまで話は発展していく。<br />
　このように、エチ先生の話は文庫本のなかの言葉一つから横道にそれていき、日本の伝奇伝承からアラビアンナイトまで、詩の宇宙から中国の兵法の話まで、『銀の匙』から自由に行き来する世界を、彼ら（生徒達）は楽しいと感じ始めていた。（「奇跡の教室」）そのために１ページ進むのに、２週間もかかることがよくあったのだそうだ。<br />
　他にも、伯母さんはまた百人一首の歌をすっかりそらんじていて、床にはいってから一流のものさびしい節をつけて一晩に一首二首と根気よくおぼえさせた。伯母さんが、「たちわかれ」という。私が「たちわかれ」とあとをつく。（「銀の匙」）という一節になると、生徒たちは百人一首を暗記させられ、クラスをあげての百人一首大会に発展する。<br />
　このような脱線をしながら３年間をかけて一冊の本を読み解くのだが、橋本先生は、「追体験することが大事だ」という。例えば、凧揚げの場面が出てくると、美術の教師に頼んで、美術の時間に凧作りをして、国語の時間に凧揚げ大会をしたり、下町の駄菓子屋の描写があれば、先生は駄菓子を買ってきて授業中に生徒たちに食べさせる。つまり、一つの場面が出てくると、その言葉や情景を追体験させることによって興味を持ち、課題意識を広げ、自分たちで調べていく、という環境作りに努めるのだ。<br />
　さらに、『銀の匙』は新聞小説であったために、一日に掲載される章が短く全て番号がふってあるだけということを利用して、生徒達に各章のタイトルを考えさせる。<br />
　また、私の生れるときには母は殊のほかの難産で、そのころ名うてのとりあげ婆さんにも見はなされて東桂さんという漢方の先生にきてもらったが、私は東桂さんの煎薬ぐらいではいっかな生れるけしきがなかったのみか気の短い父が癇癪をおこして噛みつくようにいうもので、東桂さんはほとほと当惑して漢方の本をあっちこっち読んできかせては調剤のまちがいのないことを弁じながらひたすら潮時をまっていた。そのようにさんざ母を悩ましたあげくやっとのことで生れたが、そのとき困りはてた東桂さんが指に唾をつけて一枚一枚本をくっては薬箱から薬をしゃくいだす様子は私を育ててくれた剽軽な伯母さんの真にせまった身ぶりにのこっていつまでも厭かれることのない笑いぐさとなった。（「銀の匙」）という一節に出遭うと、先生は生徒達に、自分が生まれたときの様子を、聞いて文章にまとめてみましょう。母のこと。父のこと。家族のこと。できるだけ詳しく聞いてください。（「奇跡の国語教室」）という課題を与える。このような課題によって、生徒達は本気になって読み込んだり、考えながら書くということに取り組むことになる。<br />
　勿論このような授業ができるということは、先生ご自身による『銀の匙』の十分な読み込みと徹底した教材研究があったことはいうまでもない。先生は毎時間、大事なポイントや課題を示したガリ版刷りの大量のプリントを渡し、そこに書き込ませながら授業を進めた。このプリントを綴じ込んだのが「銀の匙研究ノート」で、黒岩氏は今でも大事にとってあるとのことである。<br />
　灘校の授業は、橋本先生の国語に限らず、ほとんどの教科で教科書や受験参考書に頼らず進められたという。<br />
英語の故･俵倫一先生も忘れられない。英文法、英文解釈、英作文といった受験用の訓練はほとんどなされず、英語の小説を原書で読破していくという授業だった。（「奇跡の教室」）<br />
　つまり、受験用の内容を詰め込み勉強するのではなく、自由な雰囲気の中で、生徒たちが自分で興味を持ち自分でやっていくことによって身に付くもの、そのような学力が、名もない一介の私立学校であった灘校を、東大・京大入学者数第一位の進学校に発展せしめたのだ。<br />
　このような橋本先生や灘校の先生方の取り組みに接すると、「本当の学力」とは何なのかということを考えさせられる。<br />
　橋本先生は、私は、「遊ぶ」ように「学ぶ」姿勢を、子供たちに伝えたいと思っていましたが、それは私が９９歳まで実践してきたことなのかもしれません。遊ぶように学ぶことは、人生で最高の喜びです。～遊ぶように学ぶことの最大のポイントは、自ら参加すること。（「伝説の国語授業」）とおっしゃる。<br />
　私は、このような橋本先生の考え方こそ、２０年近く小中高で行われていることになっている「総合学習」や「生活科」の本来の考え方であり、橋本先生の授業に臨む姿や方法は、それが教科指導にまで発展した姿であると考える。<br />
　橋本先生は「国語はすべての教科の基本です。"学ぶ力の背骨"なんです」と主張し、さらにその意味を「受験勉強は、記憶一点張りの単なるツメコミでまかなえるものではないのです。観察力、判断力、推理力、総合力などの結集がものをいいます。その土台になるのが、国語力だと思います」とおっしゃる。そして先生は、「銀の匙」を教材に選び、このような授業をした理由について「ふつうに読むだけでは、なあんにも残りませんからねえ。自分が中学生のときに国語で何を読んだかおぼえていますか?　自分が教師になったときに自問自答して、愕然としたんですよ。何もおぼえてないって。先生に対する親しみはあっても、授業そのものに対しての印象はゼロに近い。～生徒に後々まで残るように教えられるものはないだろうか。子どもたちのそれからの生活の糧になるようなテキストで授業がしたい、そう思ったのです。」そして「押しつけじゃなくて、生徒が自分から興味を起こして入り込んでいくためには、"主人公になりきって読んでいくこと"がまず必要だと思っていました。そのうえで、物語や出てくる言葉から派生することもひっくるめて、生徒に本当の国語の力を、じっくりつけられる教材はないだろうかって、ずうっと考えてましたね。」と続ける。このような橋本先生の言葉は、幼小中高の校種を問わず教師の資質・姿勢として学ばなければならないのであろう。<br />
　橋本先生のこのような考え方には、私も大いに共感する。めるへんでの童話や童謡、読み聞かせ、そして「劇遊び」等を通して、ファンタジックな想像力を膨らませ、語彙を豊かにしようとする取り組みは、以上のような橋本先生の考えに通じるものであり、その後の学力の基礎作りに通じると信じている。<br />
　橋本先生は、生徒達に向かってさらに話しかける。<br />
「すぐ役立つことは、すぐに役立たなくなります。そういうことを私は教えようとは思っていません。なんでもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分を掘り下げて欲しい。私の授業では、君たちがそのヒントを見つけてくれればいい。～そうやって自分で見つけたことは、君たちの一生の財産になります」（「奇跡の教室」）<br />
　「奇跡の教室」の副題にもあるように、橋本先生は「エチ先生」と呼ばれる。若い教師時代、髪型と顔の輪郭が当時のエチオピア皇太子に似ていたことから、生徒たちが奉ったあだ名だそうだ。先生は「伝説の国語授業」の他にも、９０歳を過ぎてから「源氏物語」の現代語訳に取り組み、出版されている。先生の若さとエネルギーを支えているものは、「宝塚歌劇団」通いとおしゃれだそうだ。写真に写る先生の姿は、とてもダンディだ。</p>]]>
        
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    <title>「こだま」</title>
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    <published>2011-11-25T01:02:47Z</published>
    <updated>2011-11-25T01:03:24Z</updated>

    <summary>                                                   園長　　亀　谷　芳　彦 　またまた、母親パワーについて。 　先般、ＰＴＡの広報委員会から「こだま」...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
    </author>
    
    
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        <![CDATA[<p>                                                   園長　　亀　谷　芳　彦</p>

<p>　またまた、母親パワーについて。<br />
　先般、ＰＴＡの広報委員会から「こだま」が発行された。広報委員会の「こだま」は、毎年その時その時にあったテーマを決めて編集されている。私が直ちに頭に浮かぶだけでも、地域のグルメ情報を集めた年もあったし、地域の文化施設や史跡、医療施設の情報、また子育て情報などを特集したこともある。例年、そのための企画、取材、編集そして印刷・綴じ込みの作業と、委員さんたちのご苦労も多かったことと思う。それだけに、「こだま」が出来上がった時には、皆さんの充実感もさぞかしと、いつも感じ入っている。<br />
　今年のテーマは「防災特集号」であった。水の備蓄と少ない水の効果的使用法。また緊急時における食材と調理の仕方。ガスの供給がストップした場合の食用油を使ったコンロの作り方も載っている。これなどは、広報委員の方々が実際に作って実験までしたというのだから、記事の信憑性は非常に高い。また停電時に役立つものも紹介されているが、電池を含め、役に立つグッズを常に用意しておくことが大事だということを実感させられる。以上のように、「防災」といっても、災害を防ぐためのノウハウというよりも、災害が起きた場合の日頃の準備ということが中心になっている。ライフラインが壊滅し、生活物資の入手に苦労した東日本大震災を経験したが故の編集なのだろう。<br />
　今回の「こだま」の素晴らしさは、災害時対応ノウハウ本を引き写してきたのではなく、前述したが、それを委員さんたちが自ら実験し確認した上で取り上げたり、また、ＰＴＡ会員全員からのアンケートをもとに、日頃の意識の持ち方や問題点を明らかにしていることだ。<br />
　広報委員さんから、「参考になるでしょうから、園長先生も見てください」と、皆さんが提出したアンケート用紙を渡された。拝見すると、皆さんの震災を経験しての感じたこと、考えたことが素直な言葉で綴られており、皆さんがこのアンケートに真剣に向き合っているということが伝わってくる。<br />
　まず多いのは、突然の災害への備えの必要を実感したご意見だ。大地震が高い確率でくるということは、だいぶ前から専門家たちによって言われてきていたが、実際に経験するまでは実感がなく、十分な備えをしていた人は少なかっただろう。<br />
　ちなみに我が家の状況は、乾電池の備えはなかったが、仏壇にあったろうそくで電気が通るまでの数日を過ごした。また、石油ストーブ（ファンヒーターではない）とカセットコンロが熱源。水は幸いにも町内の集会所のある地域が断水しなかったので、そこで汲むことができた。<br />
　次に多いのは、電気・水道・ガス・ガソリンなどのライフラインに関する不便さについてだが、これらに対する備えといっても、乾電池や充電装置などがあればよかったということしかなく、システムの復旧は我々ではどうしようもない。ただ、「人間、無ければ無いなりの生活ができるんだなあと実感。普段、どのくらいムダが多かったか認識できた」というご意見や「最初は、色々なことで困ったけれど、長期化するほどアイデアを出し合ってがんばれました」といった人々の強さも現れたように思う。事実、この夏には電力不足が強調されたが、企業のみならず、各家庭にまで節電の意識が広がり、結果として電力不足を乗り越えることができたのも、日本人の強さの現れだと思っている。<br />
　ただ、今回のライフラインの壊滅という状況を体験し、システム化された合理性の中で生活することの危うさを改めて感じた。「太陽光発電が欲しかった」というご意見にもみられるように、基礎的生活（エネルギー・水・電気等）システムの複合化は必要だろうと思う。水道が１００パーセント普及せず井戸も併用されていた時代には、このような問題はさほど深刻にならなかっただろうし、エネルギーについても、都市ガスだけではなくプロパンガスや石油さらには薪炭等にも対応できる準備があればよいのかもしれない。<br />
　３０年前の宮城沖地震の時、我が家ではプロパンガスの風呂であったために、毎日風呂を沸かし、ご近所にもお分けすることもできたし、今回も、親戚が石油風呂であったために、比較的風呂には不自由することなく過ごせた。<br />
　いずれにせよ、現代のようにシステム化された社会は、そのシステムの一ヶ所にでも不具合が生まれると総てがダウンするという危うさを抱えているということだ。<br />
　さらに皆さんのコメントの中で多いのは、「人のつながり」ということだ。生活物資が乏しくなっているところに、友だちや親戚から励ましの言葉や物資を送ってもらった時には何ともいえないうれしさを感じた。特に、ご近所同士が助け合ったり、譲り合ったりした経験を持った方々は、地域の連携や日頃の絆を強めておくことの大切さを実感したことだろう。<br />
　わずかな生活物資を求めて、スーパーで長時間並んだり、首都圏の帰宅難民が秩序正しく電車を待っている映像は、外国のメディアをして「なぜ暴動が起きないのだろう」「非常時においても、節度を持って行動できる日本人」という驚きを持って報道された。これも日本人の民度の高さの表れであろうと思う。<br />
　しかし一方で、「配給並びで、発達障害のお子さんがパニックに陥っている状態なのに、『親の育て方が悪い』とか、『帰れ』とか言う住民もいた」ことを目撃し、悲しい思いをされた方もいたようだ。日本人の一般的な社会的民度の高さと、一部とはいえ個々人の教養の定着とではギャップがあるのも事実だろう。いずれにせよ、様々なハンディを持った弱者が、地域の中でどう理解され受け入れられているかは、社会的民度を計る指標の一つであることは間違いない。<br />
　また、このような大災害に直面したとき、もっとも不安を感じるのは、通信の手段がなくなり家族の安否が確認できないことだ。そういうことから「家族の非常時の連絡の取り方を決めておくこととその訓練をしておくことが大事」であることを実感した方も多い。中でも、幼稚園から戻っていない我が子の安否への不安が大きいのは当然だが、幼稚園としては「ご家庭と連絡が取れない」状況にあっては、「子どもたちの安全を確保しながら、ひたすらお迎えを待つ」ことにつきる。<br />
　今回のアンケートでは放射線については、設問がなかったせいか散発的なご意見があっただけだが、もし設問があれば様々なご意見がみられたのだろう。その中で「政府への不信」を指摘した意見もあったが、私は信頼感を得るということは、いかに情報を開示するかにかかっているし、そのことが民主主義の基盤の最も大事なことと考えている。その点、今回の原発事故では、情報が小出しにされたことが国民の不信感につながったように思う。<br />
　そのことを我が身に振り返れば幼稚園においても同じだ。幼稚園に不都合な情報を隠したり意図的に小出しにすれば、保護者の皆さんの信頼感はたちまちに失ってしまうだろう。放射線については幸い５月の時期に比べれば、相当レベルが下がったと考えているが、なんだかの変化があった場合には直ちに保護者の皆さんにお知らせするつもりでいる。<br />
　今回の「こだま」は震災後、時間の経過とともに緊張感が薄れていく我々に、再度震災を思い起こさせ、対策への緊張感を持ち続けることの必要性を喚起してくれた。広報委員会の皆さんがこのようなテーマで企画した慧眼とその編集力に改めて敬意を表したい。</p>]]>
        
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    <title>オヤジ・カアチャンの力</title>
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    <published>2011-11-07T05:54:12Z</published>
    <updated>2011-11-07T05:57:32Z</updated>

    <summary>                                                   園長　　亀　谷　芳　彦 　先日、Ｉさんから、こんなメールをいただいた。 Ｎのおやじです。先日のお父...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
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        <![CDATA[<p>                                                   園長　　亀　谷　芳　彦</p>

<p>　先日、Ｉさんから、こんなメールをいただいた。<br />
Ｎのおやじです。先日のお父さんメルヘン＆おやじの会打ち上げはお疲れ様でした。今回は、残念ながら次の日の松島マラソンに備えて、Ｍさんと共にあまり飲めずに残念でしたが、がんばって走ってきました。 <br />
結果から報告させて頂きます。５Kmコースに出場の私は、２７分台でゴールできました（目標が３５分以内だったので上出来かと・・・）。１０KｍコースはＭさんが５２分台、OBのＡさんが５１分台、Ｓさんが５３分台と全員がんばって無事完走してきました。 <br />
当日は、Ｒ君のお父さんも司会をしており、ゲストランナーの千葉真子さんと打ち合わせをしているときに話しかけ、すかさず撮ったのが添付の写真です。胸には小さいですが「チーム　メルヘン」の文字が入っています。<br />
 その後、４家族合同で「打ち上げ」をし、前日飲めなかった分、ガッツリ飲まさせて頂きました。<br />
　メールをいただいたのには次のような経緯がある。１０月８日、恒例の「お父さんと遊ぶ会」の後、夕方からの泉中央での打ち上げ会には私も参加し、３４名のお父さんかたがたと杯を交わした。ところが、たまたま席を隣り合わせたＩさんとＭさんが最初の乾杯の後はアルコールに口を付けようとしない。訊くと、翌日行われる「松島マラソン」にエントリーしているので、自重しているのだそうだ。<br />
　松島マラソンに出場するのは、上記のメールにもあるようにＩさんとＭさん、それにＡさんとＳさんの４人だそうだ。そのうちＡさんとＳさんはめるへんおやじＯＢである。<br />
　ＩさんとＭさんから「園長先生、勝手にめるへんの名前を使わせてもらいました」と言われた。つまり、４人でお揃いのＴシャッツを作り、そこに「ｔｅａｍ　ｍｅｒｕｈｅｎ」とプリントしたのだそうだ。<br />
　４人の方々がそろって松島マラソンに出ることになったのは、一昨年の「お父さんと遊ぶ会」の打ち上げの席上で、七北田公園でジョギングをしないかという話が持ち上がり、それ以降毎週日曜日に家族ぐるみで集まっては公園の周回路を走っているのだそうだ。集まるのは全くの任意で、４家族以外にも来る方はいるのだが、スタートの時刻だけを決めて、その時いた人たちで汗を流しているとのことである。走る距離もそれぞれの力にあわせて決め、子どもたちは１周ぐらいだが、親父たちは１キロメートル以上はある周回路を５，６周ぐらい走るそうなので、「７キロは走っているかな」だそうだ。そんな仲間たちが「松島マラソン」に出場するということで盛り上がっていったとのことだ。<br />
　それにしても、飲み会の場で出た「集まって走らないか」というさり気ない話が実行され、それが２年以上も続き、公の大会に参加するまでになったことには驚きさえ感じる。お揃いで作ったＴシャッツの背面には「Ｈｏｎｏｌｕｌｕ」とプリントされている。つまり、今度はホノルルマラソンに挑戦しようということだそうだ。Ｍさんは「ホノルルマラソンに参加するためには、資金を貯めなきゃ」とも言っていたが、数年後には、ホノルルの海岸に「ｔｅａｍ　ｍｅｒｕｈｅｎ」のＴシャッツが見られるかもしれない。<br />
　話題をもう一つ。<br />
　先日、ほし組のクラス行事があった。テーマは「お菓子の家」。お母さん方が、発泡スチロール等で、３０センチ立方程度の家をグループ分作り、それを透明なラップで被い、それに子どもたちが、チョコレートを接着剤にしてビスケットやスナック菓子、チョコ、グミなどのお菓子を飾り付けていった。子どもたちは、思い思いに飾り付けをするが、けして無造作な置き方をしていることなく、窓枠やドアには四角のビスケットを配置したり、キノコ型のお菓子を一列に並べたりと、子どもたちなりに工夫した飾り付けをしている。できあがった作品は、決して子ども騙しのちゃちなものではない。立派な「お菓子の家」である。<br />
　家作りが終わり後片付けをすると、いよいよお菓子の家を食べることになる。子どもたちは、嬉々として、今作った家から、飾り付けたお菓子をとって食べている。参加していたお母さんたちも一緒になって手を伸ばす。<br />
　「お菓子の家を食べる」ことは、誰しも（私のような無骨な男であっても）が一度は憧れたことかもしれない。童話の世界に浸ることが多い子どもたちはなおさらだろう。子どもたちにとって、この一時は、普段の泥臭い「めるへんの森幼稚園」とは違った「メルヘンの森幼稚園」で過ごしていた時間なのかもしれない。<br />
　あるお母さん曰く「お菓子の家を食べるのは、子どもの頃からの夢だったよね」。もしかすると、この行事は、お母さんたち自身の夢の実現のためであったのだろうか。<br />
　それにしても、お菓子の家を作るという発想には驚いてしまうし、それを実現すべく企画し、土台になる家をあのように立派に作ってくる実行力にも感心してしまう。ファンタジーの世界を夢想し、実現することが、将来大きな科学や技術あるいは芸術の発展に結びつくこともあり得るだろう。<br />
　ホノルルマラソンを目指す心意気にせよ、お菓子の家の企画にせよ、本当にめるへんの親父や母ちゃんのパワーには恐れ入ったと言う外はない。</p>]]>
        
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    <title>想像力は創造の源</title>
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    <published>2011-10-23T23:47:14Z</published>
    <updated>2011-10-23T23:48:27Z</updated>

    <summary>                                                   園長　　亀　谷　芳　彦 　 　先日の日曜日朝、テレビを見ながらくつろいでいる時に、小さな地震を感じ...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.meruhen.ed.jp/blog/">
        <![CDATA[<p>                                                   園長　　亀　谷　芳　彦<br />
　<br />
　先日の日曜日朝、テレビを見ながらくつろいでいる時に、小さな地震を感じた。このところ頻発している東日本大地震の余震の一つだろう。地震慣れしたのか、体にちょっと感じる程度では特別な驚きもなくなっている。<br />
　その時、一緒にいた義母が「怖いごと」と言った後、一寸の間をおいて、「地震が起きたとき空の上はどうなるんだろうね」という言葉を口にした。思いがけない言葉に私も一瞬たじろいで「どうなるんだろうね。空気ぐらいは動くのかね。地震雲という言葉もあるんだから、何かはあるんだろうね」そんな内容の言葉を返したあと、「おばあちゃん、そんなこと考えるんだから、まだまだ大丈夫だね」とからかい半分に言った。<br />
　義母はすでに米寿を過ぎた後期高齢者で、普段から自分で言ったことや言われたことも「忘れた」ということも多く、娘である私の家内に怒られるとそれを歳のせいにしてとぼけてしまう。いわゆる物忘れは、程度の差はあれ私も実感するところなので、歳のせいにする気持ちはよくわかる。<br />
　そんな義母が、地震と空を結びつけた疑問を持ったことに、私は少なからず驚いた。このような言葉は、その現象に関心を持ち想像力を持っていなければ出てくるものではない。たとえ若い人であっても、想像力が乏しければ、何だかの現象に出会っても頭の中では素通りしてしまう。<br />
　米寿を迎え、車椅子で生活をしている義母が自分の抱いた問題意識を研究することはできないが、もし若い研究者が「地震が起きたとき空はどうなるんだろう」という発想を持った場合には、大きな研究テーマになり得るかもしれない。そんなことから地震予知などの学問が発達することも考えられる。<br />
　私は、幼児期においては想像力を育むということは最も大事なことの一つであると考えている。<br />
　子どもがお菓子の国を夢見たり、馬車に乗った王子様やお姫様にあこがれるのも想像力のおかげだが、なんだかの体験がなければ生まれてこない。それは絵本であったり、親に添い寝されながら聞かされる昔話であったりする。金子みすゞの詩の中に次のような作品がある。<br />
　　　　　　こぶとり    <br />
　　　　　正直爺さんこぶがなく、                  <br />
　　　　　なんだか寂しくなりました。              <br />
　　　　　意地悪爺さんこぶがふえ、<br />
　　　　　毎日わいわい泣いてます。               <br />
                                    <br />
　　　　　正直爺さんお見舞いだ、　　　　　　　　　<br />
　　　　　わたしのこぶがついたとは、             <br />
　　　　　やれやれ、ほんとにお気の毒、<br />
　　　　　も一度、一しょにまゐりましょ。</p>

<p>　　　　　山から出て来た二人づれ、<br />
　　　　　正直爺さんこぶ一つ、<br />
　　　　　意地悪爺さんこぶ一つ、<br />
　　　　　二人でにこにこ笑ってた。</p>

<p>　ご承知「こぶとりじいさん」の話だ。一般的には意地悪じいさんが欲張ったためにこぶが二つになるところで話は終わるのだが、みすゞはそのお話の続きを想像して新たなストーリーを創ってしまう。彼女は、同じように「一寸法師」「かぐやひめ」「海のお宮（浦島太郎）」「雀のおやど」のその後の話も創る。これも、みすゞの想像力のたまものだが、単にファンタジーな情景を夢見るだけでなく、そこに登場する人物（生き物）の気持ちや立場に思いを馳せるのである。つまり彼女の代表作「大漁」や「こだまでせうか」にもみられる他者への想像力である。そして、彼女の想像力は新たな創造力を生み出す。<br />
　ロシアの心理学者ヴィゴツキーは次のように言う。<br />
　想像力があらゆる創造活動の基礎として文化生活のありとあらゆる面にいつも姿を現し、芸術的な創造、科学的な創造、技術的な創造を可能にしているのです。この意味において私たちの回りにあるもの、人間の手によって作られたものはすべて例外なく、つまり自然の世界とはちがう文化の世界すべては、人間の想像力の産物であり、人間の想像力による創造の産物なのです。（ヴィゴツキー「子どもの想像力と創造」広瀬信雄訳　新読書社）<br />
　私に学問的知見はないが、地球上の生き物の中で想像力を持っているのは人間だけなのだろう。少なくても高度な想像力を持っているのは人間だけだろうと思う。しかし、それは産まれ落ちた瞬間から身に付いているということではなく、成長する過程で様々な体験を積み重ねることによって豊かになっていくものである。<br />
　豊かな語彙によって生み出される想像力。「不思議だな」と感じたり「驚き」の体験から生み出される想像力。「きれいだな」とか「おもしろいな」とか感じるアートへの感性。そして人との関わりや社会的な体験から生まれる「他者の気持ちや立場」を理解する心。これらのことは全てが想像力のたまものであり、そしてこれらの体験の積み重ねが、より豊かな想像力を広げていく。つまり、想像力はこれまでの体験が蓄積された大脳の複合的な働きで生み出される。<br />
　私が、幼児教育の基本が、できるだけたくさんの驚きや気づきや感動を体験できる環境作りにあると考えるのは、以上のことによる。<br />
　ある朝、園庭にいた私に、年長のＫくんが話しかけてきた。「園長先生、秋ですねぇ。トンボが飛んでいますよ」そんな大人びた口調に苦笑しながら、私も「そうですねぇ。秋ですね。Ｋくん空を見てごらん。あの筋のような雲も秋の雲だよ」と応じた。しばらく二人で空を見ていた。高い秋の空には異なった高さのところに浮き雲と筋雲が浮かび、ゆっくりと移動している。高度によって風の向きが違っているのだろう。「ほら、綿のような雲と、筋のような雲で反対の方に動いているね」と声をかけると、Ｋくんは、しばらく確かめるように見ていたが、「ほんとだ、大発見だ！」と言って走り去った。<br />
　米寿を超えた義母も、結婚するまでは空の高い田舎で育った。子ども時代を過ごした環境や体験が、地震と空とを結びつける想像力の源であったのかもしれない。</p>]]>
        
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    <title>金子みすゞが伝えること</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.meruhen.ed.jp/blog/201110/post-176.html" />
    <id>tag:www.meruhen.ed.jp,2011:/blog//2.572</id>

    <published>2011-10-12T07:25:25Z</published>
    <updated>2011-10-12T07:27:31Z</updated>

    <summary>                                                    園長　　亀　谷　芳　彦 　 　３月１１日の大震災以来、しばらくの間テレビから流れるコマーシャルは...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.meruhen.ed.jp/blog/">
        <![CDATA[<p>                                                    園長　　亀　谷　芳　彦<br />
　<br />
　３月１１日の大震災以来、しばらくの間テレビから流れるコマーシャルは、いつも決まった内容だった。そのコマーシャルで使われていたのが、皆さんにもなじみになったであろう金子みすゞの「こだまでせうか」という詩である。<br />
　　　　こだまでせうか          <br />
　　　「遊ぼう」っていふと             <br />
　　　 「遊ぼう」っていふ。             </p>

<p>       「馬鹿」っていふと               <br />
       「馬鹿」っていふ。               </p>

<p>       「もう遊ばない」っていふと        <br />
       「遊ばない」っていふ。           </p>

<p>      さうして、あとで<br />
      さみしくなって、<br />
      「ごめんね」っていふと<br />
      「ごめんね」っていふ。</p>

<p>      こだまでせうか、<br />
      いいえ、誰でも。<br />
　震災直後から、自粛ムードの中で、商業コマーシャルをやめて、ＡＣジャパンが制作した「絆」や「思いやり」が強調された映像が繰り返し流されていた。その代表的なものとしてこの詩が使われていたのである。<br />
　金子みすゞは、明治３６年山口県の漁港先崎に生まれ、二十歳頃から詩を書き始めたと言われる。大正１２年、当時の児童文化誌「童話」や「赤い鳥」「金の船」などに、投稿した作品が掲載され、一躍注目された。特に西条八十からは目をかけられたとのことだが、昭和５年２６歳の若さで自殺という形で生涯を終えることになる。彼女は、すばらしい才能を持ちながら、地方の一投稿者で終わり、中央文壇で活躍する地位を得ることはなかった。しかし、戦後、みすゞの作品ノートが発見され全集が出版されるに至って、彼女の独特の感性と作品が世間の注目を浴びることになる。<br />
　私も、夏休みの機会に、我が家の本棚の飾り物になっていた「金子みすゞ全集（ＪＵＬＡ出版局）」を引っ張り出してみた。<br />
　以前から、教育関係者に注目されていたのが、「私と小鳥と鈴と」という作品である。<br />
　　　私と小鳥と鈴と<br />
　　　私が両手をひろげても、          <br />
　　　お空はちっとも飛べないが、      <br />
　　　飛べる小鳥は私のやうに、        <br />
　　　地面を速くは走れない。          </p>

<p>     私がからだをゆすっても、<br />
     きれいな音は出ないけど、<br />
     あの鳴る鈴は私のやうに、<br />
     たくさんな唄は知らないよ。</p>

<p>     鈴と、小鳥と、それから私、<br />
     みんなちがって、みんないい。<br />
　この詩は、画一的教育指導から脱却し、個性を尊重した指導に努めようとしていた教員たちから強い支持を受け、よく模造紙に書かれて教室の前面に張り出されていたものだ。<br />
　金子みすゞのもう一つの代表作が「大漁」である。<br />
　　　　大漁                   <br />
　　　朝焼小焼だ<br />
　　　大漁だ                    <br />
　　　大羽鰮の                  <br />
　　　大漁だ。                  </p>

<p>     浜は祭りの<br />
     やうだけど<br />
     海のなかでは    <br />
     何萬の</p>

<p>     鰮のとむらひ<br />
     するだらう。<br />
　この詩は、早朝に漁から戻った船を迎え大漁にわく浜の様子を見ながら、みすゞは漁師に捕られた鰮の立場に思いを馳せる。みすゞの作品にはこのように、弱いもの、普段目にかけられることのないものの立場に立って書かれた詩が多い。他者の立場・他者の気持ちに対する想像力豊かな表現をするが、これも、彼女の人格として身についた愛情や優しさの表れなのだろう。<br />
　「金子みすゞ全集」には５００編を超える作品が収録されている。以上の代表作といわれる３編のほかにも心を打つ作品は多い。みすゞの作品には、少女が夢見るロマン主義的なものもないではないが、それは非常に少なく、むしろ、先崎という漁港や人々の暮らしの中に題材をとったものが多い。しかし彼女は、「大漁」のように表の生活だけではなく、その背景に視線を向け、魚などの小動物の立場に立った作品が多い。</p>

<p>　雀のかあさん<br />
    子供が                <br />
    子雀                  <br />
    つかまへた。          <br />
    <br />
    その子の              <br />
    かあさん              <br />
    笑ってた。            </p>

<p>    雀の<br />
    かあさん<br />
    それみてた。</p>

<p>    お屋根で<br />
    鳴かずに<br />
    それ見てた。<br />
　私は、この作品を読むとき、テレビの映像で目にした、アフリカの紛争地や飢餓地帯で避難民としての生活をしている母子の姿に重なってしまう。権力を持った人間の国民を顧みることのない身勝手によって、多くの人々が命の危機に瀕している悲惨な状況の中で、骨と皮だけに痩せた子どもに張りのない乳房を含ませている母親が、為す術もなく力ない表情と虚ろな眼差しをカメラに向けていた姿に重なるのだ。<br />
　さらに、学校生活や友だち、それに兄弟や地域の大人が出てくる作品も多い。これらの作品を読んでいると、これが二十歳過ぎの大人が書いたのかと驚くほどに、子どもの気持ちが子どもの言葉で表現されているということに強く感動する。</p>

<p>　　小さなうたがひ <br />
　　　あたしひとりが           <br />
　　　叱られた。              <br />
　　　女のくせにって           <br />
　　　叱られた。              </p>

<p>     兄さんばっかし<br />
     ほんの子で、<br />
     あたしはどっかの<br />
     親なし子</p>

<p> 　　ほんのおうちは<br />
　　 どこか知ら。<br />
　この作品は、兄と弟に挟まれたまじめな女の子が、自分だけが親から叱られていると感じる被害者意識が素直に表現されている。程度の差はあれ、誰しもが一度は感じたことがある思いだろう。しかし、これは子どもにありがちな思い過ごしの被害者意識だけではなく、当時の社会文化が背景としてある。<br />
　みすゞが少女時代を過ごした大正時代は、大正デモクラシーが隆盛を極めていた時代である。しかし、人々の生活や因習の中では、まだまだ女性が解放されているとはいえなかった。そういう意味で、みすゞ自身「女のくせに」という心身の束縛は受けていたのだろう。そんな環境の中で、「男の子なら」や「桜の木」といった作品には、みすゞの女であることから自分を解放したいという気持ちがよく表れている。<br />
　彼女の作品を論評するなどといった大それたことはできないが、５００編以上も納められたこの全集には、金子みすゞの素直な言葉と想像力があらゆるところに溢れている。是非、皆さんにも一読をお勧めしたい。<br />
　余談になるが、彼女の作品が世に出てから、何人かの方が曲をつけてＣＤも発売されている。その中の一つを聞く機会があった。浜圭介さんが作曲し、東京フィルの伴奏で佐渡裕さんが指揮を執り、佐藤しのぶさん歌唱という錚々たる顔ぶれによるものだ。このような方々が金子みすゞの詩に注目したことはうなずけるし、すばらしいことだと思う。ただ、オーケストラをバックにした佐藤しのぶさんの朗々としたソプラノを聞きながら、みすゞの歌はもっと素朴な歌い方がいいのじゃないのかな、と生意気な考えが頭をよぎった。</p>]]>
        
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    <title>いい先生とは？</title>
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    <published>2011-09-28T23:39:24Z</published>
    <updated>2011-09-28T23:40:04Z</updated>

    <summary>                                                   園長　　亀　谷　芳　彦 　今年は、幾多の自然の脅威にさらされながらの半年であった。今月に入っても、...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.meruhen.ed.jp/blog/">
        <![CDATA[<p>                                                   園長　　亀　谷　芳　彦</p>

<p>　今年は、幾多の自然の脅威にさらされながらの半年であった。今月に入っても、猛暑や二度にわたる大型台風に襲われた。そんな中で、２４日の運動会が絶好の日和の中で実施できたのは、大袈裟に言えば宝くじに当たったぐらいの心境だった。毎年運動会では、子どもたちはドラマチックな場面を見せてくれるが、今年私の心に強く残ったのは、年長児の徒競走である。歯を食いしばり、必死の形相でゴールに向かう姿には、「かわいらしい幼稚園児」の姿からは一枚も二枚も皮が剥け、「競争することの意味」を理解したうえで全力を出す子どもたちの成長した姿が見られた。<br />
　ところで、めるへんでは夏休みが終わると、運動会を控えて園庭にトラックが作られる。トラックが作られると、朝や帰りの自由遊びの時などには、子どもたちの遊びはリレーごっこが流行りだす。リレーごっこで遊んでいるのは年長児が多いが、年中児も多くの子どもたちが走っている。時には、年少児が入っていることもあるが、バトンを渡されてもそのまま立ち止まっていて、周りからせかされてやっと走り出したり、トラックを一周しても次の子にバトンを渡さずに突っ立っている姿もよく見られる。<br />
　このように異年齢の子どもたちが混じり合って遊んでいるうちに年少児もリレーのやり方や意味を理解していくのだろう。<br />
　ある日の朝、園庭にいたある教員の周りに子どもたちが「先生、リレーやろう」と言って寄ってきた。その教員も「いいよ。やる人集めてきて」と言いながら、そこにいた２０数人の子どもたちに「リレーやる人、二列に並んで」と、てきぱきと組み分けをし、グループごとにスタートラインに並べると、スターターとして「よーい、どん」と号令をかける。子どもたちは、夢中になって大歓声をあげながら、それぞれのチームを応援していた。<br />
　その日の放課後、今度は教育実習の学生が、子どもたちに「リレーやろう」とせがまれていた。「いいよ、やろう」と言ったものの、何かとぎごちなく、子どもたちがパッパと態勢がとれないことへの途惑いの様子が見られる。すると、実習生に声をかけた年長児の４，５人の男の子たちが、なにやら言い合うように話を始め、そばで待っていた年中児などを並べ、組み分けしてしまった。その間１，２分。実習生はスタートラインに並ぶよう声をかけて「よーい、どん」とスターターの役割をやっていた。<br />
　そんな二つの場面を見ながら、私は「数年経験した教員と学生との、子ども扱いの実力の違い」を実感させられていた。それと同時に私は、「教育の場面としてはどちらがおもしろかったのだろう」ということも考えていた。指示の上手な教員の指導によってできたスムーズな活動の姿と、指導のぎごちなさ故に子どもたちの自主的な葛藤場面を生み出したのとでは、私は後者に「おもしろさ」の軍配を挙げる。もちろん指導がぎごちないとか下手だという場合には子どもたちに混乱を起こすことになるのだが、幸いめるへんの子どもたちはリレーごっこ程度なら自分たちで解決できる。<br />
　昨冬、私はデンマークの教育視察をする機会を得た。三つの幼稚園を訪れたが、北国の寒い季節にもかかわらず、子どもたちは外に出て、園庭で思い思いに遊んでいる。ところが、どの幼稚園でも先生たちが子どもと一緒に遊んでいる姿は見られない。中には、園舎の傍にあるベンチに座ったまま子どもたちが遊んでいる様子を眺めている先生もいる。我々外部の人間に見られているにもかかわらずである。<br />
　もし日本の幼稚園で、ベンチに座りっぱなしの先生がいたとしたら、保護者の皆さんからひんしゅくを買うのは目に見えている。ましてや、誰かに見られているとすれば、無理してでも自分が動いている姿を見せようとするであろう。<br />
　その時、一緒に行った女子学生たちが、子どもたちと追いかけっこを始めた。もちろん子どもたちは喜んで、学生たちを追いかけたり、また学生たちの手から逃れようと「キャッキャ、キャッキャ」言いながら駆けている。日本では、子どもたちと一緒になって楽しく遊んでくれ、全体をまとめるのが上手い先生が「いい先生」としての評価を受ける。<br />
　すると、学生たちは、引率のＮ先生から「そのような関わり方は、この幼稚園の教育方針に反する」という注意を受けた。つまり、遊びは子ども自身が作るもので、教員が作るのではない。また、遊びの中に教員が積極的に関わることによって、子どもと教員の関わり、或いは教員を中心とした関わりの面が強くなり、子ども同士の関わりの中での葛藤は生まれない、ということだ。<br />
　北欧教育は、あくまでも子どもの自立した判断力を重視する。教員は、子どもたちを見守り、何か困難が起きた場合にガイダンスするのが役割だと考えられている。北欧ではそのような教育観が定着しているので、ベンチに座っている先生がいたとしても、保護者は何の違和感も感じないのであろう。ただ、教員がベンチに座っているとき、漫然と座っているのか、どれだけアンテナを張り巡らしながら子どもを見守っているのかを見極めるのは難しい。<br />
　今、北欧教育と並んで幼児教育が注目されているイタリアのレッジョ・エミリア市の市長が次のように述べる。<br />
　新たな挑戦と向き合うたびに、世界中の友人が抱くであろう不安と同じ不安に、私たちも襲われます。どうすればいいのだろう？この問いかけに対する、答えは一つしかありません。クオリティです。クオリティというのは、資源や豊かさの象徴であるだけでなく、目配りすることであり、目配りされるということでもあります。他者に対する目配りこそが新たな目配りを生み出し、心遣いこそが新たな心遣いを生み出し、責任感こそが新たな責任感を生み出すものなのです。（「驚くべき学びの世界―レッジョ・エミリアの幼児教育―」佐藤学監修　より）<br />
　彼の言葉は、レッジョ・エミリアの教育を支える地域の有り様について述べているのだが、このことは教員の有り様にもそのまま当てはまる。大事なのは、教師のクオリティ、つまり想像力を働かせながら常に子どもに目を向け、教育の有り様を追求する姿勢と資質を持った教員であることということだ。<br />
　以上、デンマークやレッジョ・エミリアの教育の一端を述べてきたが、私は、それらの姿を日本の幼児教育ひいてはめるへんの教育に当てはめようということを考えているのではない。なにしろ、それぞれの歴史が培った教育文化と社会環境が違いすぎる。その例の最たるものは、教員が掌握する子どもの人数が違う。全体で２０～４０人しかいない幼稚園と、二百数十人を抱える幼稚園とでは、まず安全に対する気配りが格段に違う。子どもたちが外で遊んでいるときに、そこに教員がいなくてもすむといったことはめるへんでは考えられない。また、自立した遊びや活動を促すための環境作りや、働きかけが全く不要とは思わない。冒頭のリレーごっこのような集団遊びやルールのある遊びを初めてやるときには、まず教員がやり方を教えるということがあってもいい。そのことが、子どもたちの遊びの幅を広げ、子どもが自分たちで話し合って遊べるベースを作ることになる。つまり、子どもたちの知的な感動や驚き、発見に導いたり、遊びの幅を広げるきっかけを与えたりするための環境作りは、教員のもっとも中心的な仕事と考えている。<br />
　要は、子どもたちの何を育てるのかという教育目標（哲学）を持ち、子どもたちの知的な感動や驚き、発見そして自立した活動を生み出すような環境作りができる教員であることが「いい先生」なのである。そしてそれらのことを子どもたちから引き出すために、その場その場に応じて、どんな関わり方（黙って見守る事も含め）をするのか、それは、教育に真摯に向き合うことによって培われる教員の職業的勘によって判断される。　</p>]]>
        
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    <title>世代を超えて伝えること</title>
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    <published>2011-09-13T23:02:04Z</published>
    <updated>2011-09-13T23:02:46Z</updated>

    <summary>                                                   園長　　亀　谷　芳　彦 　 　毎年、広島や長崎の原爆忌、それに８月１５日の終戦記念日の前後には、新...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.meruhen.ed.jp/blog/">
        <![CDATA[<p>                                                   園長　　亀　谷　芳　彦<br />
　<br />
　毎年、広島や長崎の原爆忌、それに８月１５日の終戦記念日の前後には、新聞やテレビ等では戦争をテーマとした特集を組むことが多い。<br />
　ＮＨＫでは、数週間にわたって「証言・兵隊たちの戦争」を放映していた。そこでは、長い間、口をつぐんでいた当時の兵隊たちが、戦争の悲惨さ、軍隊生活の不条理さを涙ながらに証言する姿がたくさんあった。そんな中で私は、戦争を告発するというテーマは共通しているのだが、対照的な立場の人物を主人公とした二つの映画を見た。<br />
　一つは、五味川純平原作、小林正樹監督、仲代達也主演の「人間の条件」。ＮＨＫが６部作を６日にわたって放映した。<br />
　もう一つは、この夏映画館で封切られたのだが、９９歳になるという新藤兼人監督がメガホンをとった新作「一枚のハガキ」。主演は大竹しのぶである。<br />
　両者とも、戦争によって引き裂かれる夫婦を描くのだが、前者は徴兵され関東軍に配属された一人の兵隊が主人公で、後者は夫が徴兵され英霊となった後、残された妻の生き様が描かれている。<br />
　「人間の条件」は、昭和４０年代に発表された小説だが、私も学生のころに読んだ記憶がある。昭和１８年、南満州で結婚した梶（仲代達矢）は、新婚の妻美千子を残して徴兵される。梶が入営した軍隊では、古参兵による新兵いじめや私的制裁がごく日常的に行われていた。そのような環境の中でも、梶は人間らしさを失わずに弱い人間をかばい、精いっぱいの抵抗をするが、軍隊という組織の壁に阻まれる。反抗分子とみられる梶は、前線に送られ、そこで終戦を迎えるが、終戦の情報は伝えられず、侵攻してきたソ連軍によって部隊は玉砕する。わずかに生き残った梶たちは、敗残兵として逃避行を行う。<br />
　途中、自らの手でソ連兵を殺したり、逃避行に付いてきた民間人を見殺しにしてしまったりしたことに、自分が持っている人間としての誇りとの矛盾を感じ、葛藤する姿を描く。さらに、まだ全滅せずに、ソ連軍に対するゲリラ戦を試みようとする部隊と出会い、その指揮官から「なぜ部隊とともに玉砕してこなかったか」となじられるが、梶は普段の生活に戻りたいという思いで、妻美千子のもとに帰ることを目指す。<br />
　また満州の開拓部落に取り残された女性たちがソ連兵や日本の敗残兵に凌辱されながらも生き抜こうとしていることなどに美千子の状況を重ね合わせる妄想に襲われるが、妻を信じ、自分の犯した非人間的行為について許しを請いながら、美千子のもとを目指して一人満州の原野を彷徨する。しかし、ついに力尽きて倒れ、降り積もる雪に被われていく。<br />
　この映画は、ＮＨＫが「家族」をテーマにした映画として放映したのだが、それを選定したのは山田洋次監督である。「人間の条件」は、戦争によって、日常の生活がそしてごく普通の人間が破壊されていく悲惨さや軍隊の持つ不条理さを描いたものだが、山田洋次監督は、それ以上に梶と美千子の夫婦愛に視点を置いたのかもしれない。<br />
　「一枚のハガキ」は、戦争末期に招集された中年兵たちが、上官によるくじ引きで派遣先が決められるところから物語が始まる。フィリピンに送られることになった森川定造は、妻友子（大竹しのぶ）から受け取った一枚のハガキを、くじ運によって内地に残ることになった松山（豊川悦司）に託す。<br />
　森川が乗った輸送船は戦地に着くこともなく、米軍の潜水艦に沈められ、友子のもとには遺骨の入っていない白木の箱だけが送られてくる。夫を失った友子は、舅姑から懇願され、定造の弟三平と再婚するが、その三平も徴兵され戦死をしてしまう。その後、舅姑も相次いで死に、友子は一人残される。<br />
　戦後、松山は復員するが、戻った実家では松山が戦死したものと思われていて、妻と父親が深い仲になり逐電するという悲劇が待っていた。そんな状況から逃れるために、松山はブラジルに移住することを決めるが、その前に定造から預かったハガキを持って友子を訪ねる。そこで出会った二人は、気持ちが通じ合い、二人で山奥の土地に麦を蒔いて生活を立て直す決意をするところで物語は終わる。<br />
　この映画は、友子と松山がわずかな土地に麦を蒔いて新しい生活い向かっていこうとする姿に、戦後日本の復興への動きを示唆するものもあるが、主題は、直接戦地に赴かない人々であっても、戦争に翻弄され、それぞれの運命が変えられていく悲惨さを伝えようとしているのである。<br />
　「一枚のハガキ」は、９９歳になる新藤監督が、自身の映画人生最後の作品として、すべての力を出し切って取り組んだ作品だといわれる。そして彼は、人々への最後のメッセージとして戦争をテーマに選んだ。ストーリーとしてはできすぎた話として感じられた兵隊の運命が上官の引くくじで決められるという場面も、自分も徴兵された新藤監督自身の体験に基づくものであるとのことだ。<br />
　私が「一枚のハガキ」を映画館に見に行ったときには、１００人ほど入る部屋の座席は６割ほどが埋まっていたが、観客のほとんどは５０代以上で、若い人の姿はほとんど見ることがなかった。<br />
　新藤監督が、この映画を本当に見てもらいたかったのはどんな人たちであったのだろう。決して年寄りがノスタルジーを感じるためのものではなかったはずだ。<br />
　ＮＨＫが「証言　兵隊たちの戦争」や「人間の条件」を放映し、新藤監督が「一枚のハガキ」を撮ったのも、若い人たちに、戦争はこれだけ悲惨で愚かなものなのだということを、そして戦争は人間の運命を変えるだけでなく、人間性そのものをも変えるという事実を伝えたかったからだろう。そこには、戦争を知らない世代に対する、二度と戦争をしてはいけないという強いメッセージが込められている。最近、自分の悲惨な体験を思い出したくないという気持ちや、戦争中に自分の犯したやましさから、ずうっと口をつぐんできた８０代、９０代の戦争体験者が口を開くようになってきた。これも、戦争を知らない世代に対して今伝えなければならないという気持ちからであろう。私も、若い世代の人々が、これらの戦争体験世代の強い気持ちや言葉を真摯な気持ちで受け止めてくれることを願っている。<br />
　今我々は、東日本大震災という大きな災害に直面した。このことについては、２０代３０代の若い世代の人たちも含め、この災害を体験した人々の多くが、この悲惨さを多くの人たちに伝えることによって、二度とこのような悲劇を体験して欲しくはないという思いを持っていることだろうと思う。戦争であれ、大震災であれ、二度と起きてはならない悲劇は後世の人々にきちんと伝えていくことが大事である。<br />
　「一枚のハガキ」の試写会には、天皇陛下がご臨席になったと聞く。このような深刻なテーマの映画に、しかも少なからず天皇制との関係が取りざたされる可能性のある映画に、わざわざ足を運ばれて鑑賞されたということに、天皇陛下のお人柄が偲ばれる。</p>]]>
        
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    <title>４ヶ月遅れの卒園式</title>
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    <published>2011-08-26T02:25:25Z</published>
    <updated>2011-08-26T02:25:58Z</updated>

    <summary>                                           園長　　亀　谷　芳　彦 　 　夏休みに入った７月２３日（土）、第３０回卒園式が行われた。ご承知の通り３月１１日の大...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.meruhen.ed.jp/blog/">
        <![CDATA[<p>                                           園長　　亀　谷　芳　彦<br />
　<br />
　夏休みに入った７月２３日（土）、第３０回卒園式が行われた。ご承知の通り３月１１日の大震災の影響で、年度末に予定されていた卒園式がこの日まで延期されていたのだ。<br />
　当日は、遠くは大阪から来たＮちゃんを始め、年度末に県外に転出した８人のうち７人を含めて１００人の参加があった。５人の欠席者がいたが、内３人は当日を前にしての病気によるもので、中には「私は参加します」と、お母さんだけがいらした方もいた。<br />
　夏休みに卒園式をやることになったのは、震災後、年長ＰＴＡの役員の皆さんと相談をしたときに、「今は、少ない方たちとはいえ、家に住まうことができなくて避難所に入った方や県外にある実家等に避難している方もいるし、みんなの気持ちも落ち込んでいる。例年夏休みには、その年卒園した子どもたちの同期会が行われることが多いので、その機会に園長先生から卒園証書を渡してほしい。その時期ならば、みんなが明るい気持ちで参加できるのではないだろうか」。そんなご意見がでて、「それはいいアイデアだ」ということになり卒園式を延期することを決めたという経過がある。<br />
　朝登園してきた親子の多くは喜色満面に浮かべ、４ヶ月ぶりで再会する友だちやママ友同士の歓声があちらこちらから上がる。<br />
　当初、夏の卒園式を予定するに当たっては、同窓会として楽しい集いの中で、「園長先生から証書を渡してもらえばよい」という雰囲気であったが、震災前に子どもたちは家に帰ってからも卒園式で自分が言う言葉を練習していた、というお母さん方の話や、担任たちの「３月の卒園式に向かって練習してきたことも、子どもたちに表現させてやりたい」といった気持ちもあり、むしろ従来の姿に沿った形で実施された。<br />
　登園した子どもたちは、それぞれの教室に入り、歌うことになっていた歌や言うことになっていた言葉を一度練習して卒園式に臨んだが、もう忘れているのではないかという心配も杞憂で終わった。<br />
　式に参加した子どもたちは、たった４ヶ月とはいえ、成長した姿が顕著で、歌声もしっかりしていて、呼びかけの言葉も、ぼそぼそとした言い方や小さな声で聞こえないといったことが例年に比べぐんと少ないという印象だった。<br />
　この日を控え、服装が気になるお母さんたちもいらしたようで、何人かから問い合わせもあったが、参加した子どもたちは、幼稚園時代の制服（夏用）を着てくる子がいたり、制服はもう小さくなって着れないと私服で参加する子がいたりと様々であった。また、お母さんたちも、例年卒園式でみられる着物姿などに比べれば、軽装で参加する方がほとんどで、それぞれが式にふさわしい姿への配慮をされていて、むしろ全体としてはすっきりとした雰囲気に満ちていたという印象が強い。<br />
　教員たちも、特別な状況での卒園式とあって、例年以上に立派な式を挙げてやりたいという気持ちで臨み、装飾や会場作り等の準備に前日遅くまでがんばっていた。また、若い教員たちの中には夏の式服がないということで、それにふさわしい服をわざわざ新調するなど、私も、彼女たちの心意気に感慨を覚えることもあった。<br />
　今回の卒園式、もし例年と違うということがあれば、それは会場を飾る鉢物だろう。めるへんの卒園式は、いつもなら色とりどりのアザレア等の鉢で会場を華やかな雰囲気を演出するのだが、今回は、緑の多い観葉植物の鉢を中心にして飾られ、夏の季節の中に清涼感と落ち着いた雰囲気を醸しだしていた。<br />
　以上のような経過と周りの支えで無事卒園式を無事終えることができたが、３月に、卒園式を延期するという方針を出したときには、当然ながら保護者の皆さんの中には「幼稚園児から小学生というけじめのためには、入学式前にやりたい」「幼稚園に大きな被災もないのに、やれないということはない」という異論もあった。しかし、「みんなが揃って、明るい気持ちの中でやりたい」という気持ちと意図が広がることにより、「苦しい事情を抱えた一人一人の状況に思いをいたす皆さんの配慮に感激した」「夏の卒園式を楽しみにしています」といった声も多く届くようになり、延期をするということへの理解が深まっていったように思う。<br />
　そして、卒園式を終え、玄関前で見送る私に対して、遠くから旅費をかけて参加した方や最初延期に異論を持った方々も含め、降園するみなさんは、笑顔と感謝の言葉をたくさんかけてくださった。<br />
　そんな言葉をいただきながら私は、夏の卒園式という特異な経験が、東日本大震災という大きな出来事と、それに伴った親たちが葛藤した気持ちが、子どもたちに伝わっていけばよいということを考えていた。<br />
</p>]]>
        
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    <title>親父めるへん</title>
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    <published>2011-07-19T07:11:07Z</published>
    <updated>2011-07-19T07:12:01Z</updated>

    <summary>                                              園長　　亀　谷　芳　彦 　 　６月２日、今年も「お父さんと遊ぶ会」が行われた。例年ならば、園庭いっぱいに泥池...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.meruhen.ed.jp/blog/">
        <![CDATA[<p>                                              園長　　亀　谷　芳　彦<br />
　<br />
　６月２日、今年も「お父さんと遊ぶ会」が行われた。例年ならば、園庭いっぱいに泥池や泥田を作り、子どもたちは全身泥まみれになりながらのどろんこ大会をやっていたのだが、今年は「放射能問題」のあおりを食った形で、「どろんこ大会」ではなく、「お父さん遊園地」の内容で実施された。<br />
　「わにわにパニック」「お父さんボーリング」「階段滑り台」「お父さんブリッジ」それに泥玉ならぬ新聞紙で作ったボールでの「的当て」、そして「メリーゴーランド」と、いつもなら秋の「お父さんと遊ぶ会」のメニューが用意された。<br />
　昨年までのことがわかっている年長児の中には「どろんこ大会をやりたい」といった気持ちを持った子もいたようだが、子どもたちにとっては、お父さんたちとダイナミックに遊ぶこと自体が楽しいことなので、遊び開始と同時に、汗だくになって遊び込んでいた。<br />
　もちろん、年少児などの中には、雰囲気に圧倒されて自分で遊びを選択できずに、教員の後をついて回ったり、誘いかけられないと遊びの中に入っていけない子もいる。<br />
　年中児のお母さんから「おとうさんめるへんも今年は先生と離れて遊べていたようなので、少し成長したのかな、と思います。少しずつでも成長していってほしいです」といった連絡もいただいた。今年は教員のしっぽになっていた年少児も、来年はたくましい姿を見せてくれるだろう。<br />
　当然ながら、今回の「お父さんと遊ぶ会」の実施に当たっては葛藤があった。保護者の皆さんから「放射能が心配だ」という声も、「どろんこ大会はやってやりたい」という声も、それとなく聞こえてくる。中には、「どろんこ大会のような雰囲気が魅力で、めるへんを選んだのに、残念だが、今はどろんこ大会をするのは躊躇する」といったご意見を言っていたお母さんもいた。<br />
　今年の「お父さんと遊ぶ会」では、この問題は避けて通れないと考え、開会に当たっての挨拶で、私は「会長の角張さんがいらしたとき、今年はどろんこプールは止めよう、という話をしました。ご承知の通り、幼稚園では何回か放射線の線量測定をお願いしていますが、測定をお願いした方々からは、心配する数値ではないという言葉をいただいております。また、公に言われている中では、仙台市の放射線レベルも高い数値がでているようではないと思います。そんな状況から、私は、子どもの日常生活をコントロールする必要はないと考えています。ただ、今問題になっている放射線は、私たちが望んで受けているものではないし、原発事故以降高くなっていることも確かなので、できるだけ子どもたちが体の中に取り込まないような対策はしなければならないと考えています。そういうことから、ホットスポットの洗浄や滑り台等の遊具の水拭き、それに晴れの日には園庭に水を撒いて土埃が上がらないような工夫などをしています。しかし、今空気中の放射性物質は少なくなる傾向にありますが、土にはこれまでのものが蓄積されています。その場合、土をほっくり返してそこに水を入れることは、健康に影響を与えるレベルかどうかは別として、相対的に濃度の高い放射線溶液ができるだろう。そこに子どもたちが頭からつっこんだり、泥水を全身に浴びれば、放射性物質を飲んだり、目や鼻の粘膜に付着させることも予測せざるを得ないということで、どろんこプールはやめることを会長さんにお願いしたのです。<br />
　そんな私の気持ちを受けて企画会が行われたのですが、２時間にもわたって話し合いがされたそうです。どろんこプールはだめでも、泥遊びはいいんじゃないかといった意見も出たやに聞きますが、かえって中途半端なことをやるよりも、ということで今日の内容になったと聞いております。企画会の皆さんには、非常に賢明な結論を出していただいたと思います」といった趣旨の挨拶をした。<br />
　お父さんと遊ぶ会の事前や事後にも、直接「ダイナミックな遊びがなくなるとめるへんらしさがなくなるんではないか」といった意見を何人かの方からいただいた。ただそのようなご意見に対しては、「確かに、めるへんはできるだけ子どもたちの遊びを規制するようなことはしないということを信条としている。ただそのような実践は、教員たちが、何も考えずに野放しにしているということではない。ダイナミックさを求めれば求めるほど、それだけ遊びの環境への配慮をしたり、細かな気配りや目配りをしなければならないんだよ」といった話をさせていただいていた。<br />
　１時間強の「お父さんと遊ぶ会」、フィナーレを飾ったのは、全員園庭に集まってのメリーゴーランド。お父さんたちは汗だくになりながらも、子どもをおんぶしたり、肩車をしたり、そして多くのお父さんが子どもを二人抱えながら園庭いっぱいに広がって回転していた。満足した子どもたちが教室に戻りすべて終わると、企画会のメンバーのお父さんたちは、お互いにハイタッチをしながら、会の成功を祝福しあっていた。<br />
　それにしても、思いっきり「どろんこ遊び」ができる環境が、早く戻ることを願うばかりだ。</p>]]>
        
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    <title>アクティブな母ちゃんたち</title>
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    <published>2011-07-13T00:15:57Z</published>
    <updated>2011-07-13T00:16:45Z</updated>

    <summary>                                                  園長　　亀　谷　芳　彦 　 　１週間に一度のめるへんタイムは子どもたちがとても楽しみにしている活動だ...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
    </author>
    
    
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        <![CDATA[<p>                                                  園長　　亀　谷　芳　彦<br />
　<br />
　１週間に一度のめるへんタイムは子どもたちがとても楽しみにしている活動だ。教員たちが、コーナーごとに遊びの環境を作り、どんな遊びをするか、子どもたちが自分で選んで遊び込む。学級学年の枠をはずしての活動なので、年長・年中・年少入り乱れるが、数人でいろいろなコーナーを渡り歩く子もいれば、一つのコーナーから離れない子もいる。　このめるへんタイムには、お母さん方も興味を持つ方が多いようで、数年前から、絵本サークルやコールめるへん、さらにバレーサークルの方々が、時々コーナーを開設してくれている。時々紹介しているように、このようなサークル活動が盛んなことや、サークルに参加している皆さんが、自分たちだけの活動だけでなく、子どもたちの教育活動にも関わりたいという意欲を持って行動するのは、めるへんならではと思っている。<br />
　ところで、６月２２日のめるへんタイム、すでに組織されたサークルの皆さんとはちがった顔ぶれがコーナーを開設していた。Ｉさんが年長のお母さん方に呼びかけたとのことである。<br />
　空き缶立て。子どもたちは空き缶をどこまで高く重ねていけるかに挑戦していた。また、ビー玉を使った起き上がりこぼし。坂道を上から転がすと重心が移動して一定のリズムでおもしろい動きをしながら坂道を転がっていく。そして、もう一つの遊びはなんと名付けた遊びだろうか。３本のコーヒーなどの空き缶をボール紙の枠の中にちょうど収まるように三角に重ね、それを棒で押してポストを回ってくる。ルールは、運動会の大玉転がしと同じだが、転がるものが幅のあるローラー状なので、中心をまっすぐ押さないとうまく進まず曲がってしまう。すべてが、お母さんたちの手作りで、子どもたちの「科学する心」を育む遊び道具である。<br />
　ホールを使ったコーナーには、子どもたちも結構集まって楽しんでいる。ところが、ホールの中には、子どもたちの遊びのお世話をしているお母さんたちのほかに、離れたところにテーブルを出して七夕のくす玉作りをしているお母さんたちもいる。むしろ人数はこちらが多い。<br />
　Ｉさんたちは、「私たちも、やってみたいね」といった気持ちから、任意に皆さんに声をかけたらしい。ところが、子どもの遊びのお世話は数人ですむのだが、予想した以上のお母さんたちが呼びかけに応じて参加してくれたので、あとの方々はくす玉作りをやることになったとのことである。<br />
　できあがったくす玉は、吹き流しをつけ、それに年長の子どもたちが書いた短冊をつけて、今幼稚園の玄関を飾っている。<br />
　Ｉさんたちが、この遊びのコーナーを開設する上で、どんな資格で呼びかけたのか、という話ではない。いずれかの組織に参加していないと、何か思っていてもなかなか声を出しづらいものだが、特にサークルに属しているわけでもなく、何かの立場にあるわけでもない方々が、任意に声を出したというところに私はおもしろさを感じた。もちろん実際の行動は、幼稚園と調整・打ち合わせをしたのだろうが、そのような打ち合わせも含めて、それが実現するまでにはご苦労もあったことだろう。特に、一人でやりたいことに取り組むのとは違って、社会的意味があったり、社会的関わりを持たざるを得ないことに取り組む場合には相当のエネルギーを使うことになる。しかし、Ｉさんはじめ皆さんは、そんなことの苦労の姿を微塵も見せずに、子どもたちとの活動を楽しんでいた。年長のお母さんたちのこのような行動力、本当にすばらしいと思う。</p>]]>
        
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    <title>二つの価値の狭間</title>
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    <published>2011-06-28T06:56:03Z</published>
    <updated>2011-06-28T06:57:25Z</updated>

    <summary>                                              園長　　亀　谷　芳　彦 　 　最近の震災関係の報道を見ていると、その中心が、地震被害・津波被害の問題から放射...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
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        <![CDATA[<p>                                              園長　　亀　谷　芳　彦<br />
　<br />
　最近の震災関係の報道を見ていると、その中心が、地震被害・津波被害の問題から放射能被害の問題に移っているように感じる。それも、被害が進行中の問題であれば当然のことかもしれない。中でも、福島原発からはそれなりに離れている地域にも放射能汚染の広がりが見られるようになり、そんな地域の、幼い子どもを抱えた親たちの不安や行動が取り上げられることが多くなった。<br />
　２週間くらい前になるが、次のような映像を目にした。ニュース番組の一こまを一過的に見ているので、正確な地域などは覚えていないが、１０人前後の母親たちが首都圏のある地域の教育委員会を訪ね、「幼稚園や学校での外遊びは３０分以内にするよう、学校に通知してください」と詰め寄っている場面があった。教育委員会の職員は言葉少なくなるが、内心では「別の判断基準もあるのだが、一つの正論に対してそれを主張すれば、水掛け論になってしまう」という思いがあるのだろう。どういう立場であれ、詰め寄られると詰め寄られる側は防御的になるものだ。<br />
　また、今放射線測定器が売れているというトピックの中で、線量計を購入した千葉市の母親が、それを持って子どもがふだん遊んでいる公園を測定している姿を追った映像もあった。一緒にいた子どもが、公園の植え込みに近づこうとした瞬間「ダメ、入らないで、バッチイから！」。さらに、子どもが公園に置いてあるベンチに座ろうとすると、やや強い口調で「ダメ！座らないで」。子どもが「どうして」と訊くと、「バッチイから！」。それから車で別の公園に行き、母親だけが車から降り、公園内を線量計で測り、「ダメだ、遊ばせられないわ」と車内で待っていた父親と子どもに向かって言っていたが、子どもは、無反応に車のシートを倒して寝そべっているだけだった。<br />
　そんな二つの映像を見ていて、幼子を持つ親たちの、放射能という目に見えない脅威に対する不安の強さが身につまされると同時に、このような母親の勢いでは、子どもたちの遊びへの気持ちは委縮してしまうなということも気になった。<br />
　そして、映像の中で、私がもう一つ気になったのは、カメラがとらえた母親が持っている線量計の値だ。たしか、ベンチは０．４μSv/hであったが、公園の地面は０．２μSv/h程度であったように記憶している。素人の私が数値に対する評価を軽々しく言ってはいけないのかもしれないが、その数値で、子どもを遊ばせられないのかと心の中ではつぶやいていた。子どもを放射能の脅威から守るというのも大事だが、それと同時に子どもを広い空間の中で伸び伸びと遊ばせるというのも大きな意味のあることではないのかと考えていたのである。しかもその時は親も一緒なのだから、例えばマスクをかけ、遊んだ後は手洗いうがいをして、着ているものを洗濯するという対策を立てることを考えて、親子が一緒にはね回るという選択肢はなかったのだろうか、というのが率直な感想だった。<br />
　二つの価値に直面し、何を選択するのかという迷いは、私たち教員にとって日常的に起こりえる。矛盾する二つの価値の狭間に立った時、一つの価値を絶対化すれば、他の価値は無視されてしまうことになる。<br />
　ふだん、教員や親は子どもたちの教育や子育てに当たる場合、様々な場面に遭遇する。その場合、子どもを巡る多様な価値を理解したうえで、時には矛盾する価値から選択したり、そのバランスを考えた上で方針を立てる。複雑な状況に葛藤しながら方向性を導いていくということになるのだが、このような場合は、無知なるが故に一方の価値を無視してしまうというのとは違う。<br />
　ところで、今起きている原発事故問題で、もっと深刻な状況にあるのが、原発から２０キロメートルとか３０キロメートルの同心円内やその近辺で生活をしている方々だろう。彼らの多くは、安全という価値と生活基盤という価値の狭間で究極の選択を迫られていた。その結果、自分の生活基盤を選択し、やむを得ずその地域に残った人もいるとのことである。最近、避難指定地域に残った老夫婦が餓死をしていたというニュースを目にした。<br />
　今、日本人には、原発そのものの存在をどのような価値で評価すべきなのかという問題が突きつけられているように思う。<br />
　先般、作家の村上春樹氏がスペインで「カタルーニャ国際賞」を受賞した。彼は、その時の「非現実的な夢想家として」と題した受賞スピーチで、東日本大震災を、とりわけ原発事故を取り上げた。<br />
　そのスピーチで村上さんは、<br />
「ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。１９４５年８月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて２０万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。―中略―広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。」と述べる。<br />
　つまり、核爆弾を落とされ多大な犠牲を払ったということで犠牲者ではあるが、その力を防ぎ得なかったということにおいて、我々はすべて加害者でもあるということを主張する。<br />
　「そして原爆投下から６６年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。」<br />
　すべてが加害者であるといいながらも、広島・長崎の原爆投下はアメリカによってなされたことから、直接手を下した加害者はアメリカであるという言い訳もできた。しかし、今回の原発事故は、我々日本人の手が染められている。<br />
　広島・長崎を経験した日本人は「核アレルギー」とか「核に対する絶対的な拒否感」を倫理観・価値観として持っていた。それに対して、「効率性」「経済性」そして「地域の利害」という価値観が提示され、国民の多くが強い意識を持たないままに、いつの間にか世界第３の原発大国になっていた。このような重大な政策が、ヨーロッパ諸国のように全国民が葛藤することなく、曖昧なままに決められていくところに、まだまだ民主主義が醸成されていないという日本的風土があるのだろう。<br />
　村上春樹さんのスピーチがニュース番組で取り上げられたとき、評論家の寺島実郎さんが、村上さんの「我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。」という主張への敬意を示しながらも、村上さんの「核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。」という点においては「私は違うのです」という前置きの上で、「核の平和利用ということは考えるべきだと思います。医学面での利用、それに今後中国などは原子力発電をどんどん進めていくでしょうから、そこでの技術的協力など......」といった趣旨の発言をしていた。<br />
　それを聞いていて、私は若干の違和感を感じた。寺島さんに対しては、日頃誠実な思考態度を持った方という印象や明晰な論調に少なからず敬愛の念を持っていたが、この時だけは「ちょっと違うのではないか」と感じた。<br />
　つまり「核の平和利用」ということであっても、医学用などに利用する場合と、その規模において核爆弾並の大きさを持つ原子力発電所では同一視はできないのではないかと感じたのである。<br />
　作家の大江健三郎さんが、「知の巨人」と敬称されている加藤周一さんの言葉を紹介しながら次のように述べる。<br />
あまり人がいわないけれども、加藤さんが確実にいっていられる重要なことがあります。彼は、原爆が落ちたすぐ後に広島に行って調査をした血液学の専門家であって、広島の悲惨はよく知っています。そして広島で落とされたあの核爆弾と、原子力発電所で発電をしているあの核物質の使い方も同じだと示すのです。すなわち、「核爆弾も原子力発電も、核分裂の連鎖反応から生じる。連鎖反応が加速されれば爆発して爆弾となり、原子炉のなかで制御されて臨界状態が続けば発電所の熱源となる」だけだと。「比喩的にいえば原子爆弾とは制御機構の故障した発電所のようなものである。核兵器と原子力発電は、一方が「戦争」に属し、他方が「平和」に属するという意味では、限りなく遠い」私たちもそのように、発電所と核兵器とは遠いものとして受け止めている。「しかしどちらも核分裂の連鎖反応の結果であるという意味では、きわめて近い。もちろん原子爆弾による放射線病と、チェルノブイリや東海村の事故による平和時の障害も、本質的には同じものである（造血組織や生殖・遺伝機構への破壊的影響）」（『知の巨匠加藤周一』より　大江健三郎「いま『日本文学史序説』を再読する」　岩波書店）<br />
　つまり、「核の平和利用」といったとき、原子力発電所の構造と核爆弾の構造は、核分裂を伴うということにおいて限りなく近く、他の平和利用とは次元を異にするということだ。<br />
　余談だが、ここで引用した大江さんの論考が入っている「知の巨匠加藤周一」は、東日本大震災の前日３月１０日に第１刷が発行されている。<br />
　今我々は、相反する価値の狭間にあってその選択を迫られている。「電力不足で不便な生活を強いられてもいいんですか」「エアコンが使えないと熱中症になりますよ」「計画停電をせざるを得ません」「風力や地熱等の自然発電は不安定なのです」「安定的な電力が確保されないと日本の経済発展は阻害されますよ」「原子力発電はコストが低いんです（この根拠は破綻したのだろうが）」と盛んに喧伝される現実的な価値。また、今回の原発事故で多くの課題が明らかになったので、その欠陥を止揚していくのが科学を発展させるということだという主張もある。一方、「核分裂という行為は神の領域で、人間が手を出すべきではない」といった哲学的な主張もあれば、村上さんが言うように、日本人は広島・長崎の体験に基づいた「非現実的な夢想家」としての倫理観に立った上で、代替エネルギー（再生可能エネルギー）の開発を進めるべきという主張もある。<br />
　これらの主張の狭間にあって、日本人は、いつまでも曖昧な形で、なし崩し的にことが進むということからは脱却しなければならないと思う。どの価値を選択するのか、場合によってはそのバランスをとる道を模索するのか、国全体が葛藤した上で、一人一人の国民が判断しなければならない時期にきていると考える。<br />
　広島の平和公園に、日本人で初めてノーベル賞を受賞した原子物理学者の湯川秀樹博士の歌碑が建っている。<br />
　　　まがつひよ　ふたたびここに　くるなかれ　平和をいのる　人のみぞここは<br />
　残念ながら、まがつひ（災厄の神）は福島の地に再び現れた。一刻も早く、まがつひの心を静め、三度現れることのないよう日本人としての姿勢を示さなければなるまい。</p>]]>
        
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    <title>放射線測定２</title>
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    <id>tag:www.meruhen.ed.jp,2011:/blog//2.515</id>

    <published>2011-06-17T00:07:31Z</published>
    <updated>2011-06-17T00:10:21Z</updated>

    <summary>                                                   園長　　亀　谷　芳　彦 　 　先日、幼稚園内の空気や表土について放射線測定をした結果についてお知ら...</summary>
    <author>
        <name>亀谷芳彦</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.meruhen.ed.jp/blog/">
        <![CDATA[<p>                                                   園長　　亀　谷　芳　彦<br />
　<br />
　先日、幼稚園内の空気や表土について放射線測定をした結果についてお知らせしました。その結果は、日常の生活を制限するほどではないということでした。<br />
　その際、ある大学の研究室に土と水道水の分析をお願いしている旨を書きました。その結果についてお知らせします。記号や単位は専門的なので私自身も理解できませんが、そのまま記します。μＳｖ／ｈ（マイクロシーベルト／時）<br />
　　　　　　　　　　　　　Ｎａｌ（γ線測定）　　　　　　　ＧＭ（β線とγ線測定）<br />
　園庭の土　　　５／２６　　　０．０６μＳｖ／ｈ　　　　　　　　　６０ｃｐｍ<br />
          　　　６／１４　　　０．０８μＳｖ／ｈ　　　　　　　　１４３ｃｐｍ<br />
　水道水　　　　５／２６　　　０．０６μＳｖ／ｈ　　　　　　　　　　　　　　　　９４ｃｐｍ<br />
       　 　　　６／１４      ０．０６μＳｖ／ｈ                  ７５ｃｐｍ<br />
　風の子公園土　５／２６　　　０．０５μＳｖ／ｈ                  ８２ｃｐｍ<br />
　泉区小学校土  ５／２６　　　０．０６μＳｖ／ｈ                １１６ｃｐｍ<br />
　          　　６／１４    　０．０６μＳｖ／ｈ                　９８ｃｐｍ<br />
　栗原市土  　　６／１４      ０．０５μＳｖ／ｈ                　８１ｃｐｍ<br />
　栗原市水　　　５／２６      ０．０５μＳｖ／ｈ 　　　　　　　 　８１ｃｐｍ<br />
　　　　　　　　６／１４      ０．０５μＳｖ／ｈ                  ７０ｃｐｍ<br />
     ※ｃｐｍ　１分あたりの放射線計測回数で放射線量。放射線測定機に１分間に入ってきた放射線　　　　　　　　の数を計測している。人体への影響の大小は考慮していない。<br />
　なお、６月１４日の第２回目の測定では、私自身も立ち会わせていただいた。厳重に管理された実験室にはをＮａｌを測定する機器とＧＭを測定する機器が２台備えられていた。<br />
　以上の結果を受けて、検査をしていただいたＯ先生のお話を伺った。<br />
　これらの記号で、γ線は、話題になっている放射性ヨウ素や放射性セシウムが出す放射線で、β線はヨウ素やセシウムに加えて放射性ストロンチウムという物質が出す放射線だそうだ。つまりβ線が測定されたということはストロンチウムが存在するということでもある。ストロンチウムは半減期も長く、その毒性もヨウ素やセシウムに比べて強い物質であるとのことである。<br />
　原発事故以前のＮａｌは０．０４μＳｖ／ｈ、ＧＭは５０ｃｐｍだったそうなので、明らかに数値はあがっている。ただし、「現在仙台ででている数値では、健康に関する心配は一切なく、日常生活に影響を与えるものではない」というお話をいただいた。<br />
　水道水についても、ふつうに飲んでも大丈夫だ。プールは数日取り替えないものはそれなりに放射線が増えていくが適当な間隔で水の入れ替えをすれば大丈夫だ。ましてや幼稚園では毎日水を取り替えるということであれば、全く問題ない、ということであった。<br />
　これらの放射性物質について説明をいただいたが、ヨウ素は甲状腺に溜まりやすく、特に成長ホルモンに影響しやすいので子どもには危険であること。ただし報道されているようにその半減期は非常に短いし、海藻をたくさん食べている日本人はかかりにくい。セシウムは、半減期が長く筋肉に溜まりやすいが、筋肉は代謝が激しいので、生物学的半減期が早く、どんどん蓄積されていくというものではないとのことだ。もっとも気をつけなければならないのがストロンチウムで、これは半減期も長く骨に溜まりやすいので、多ければ造血機能に影響を与え白血病等の危険性がある。<br />
　これらの物質は、３月１２日と２４日に水蒸気爆発が起きたときに大量に放出され、世の中の人は１３日頃にもっとも大量の被曝をしたが、ヨウ素は半減期が短いので、現在はほとんどなくなっているだろう。今、飛んできているのは、セシウムとストロンチウムだが、これは原発の冷却水が蒸発した蒸気の中に含まれていて、それが風に乗って各地に飛散している。ただし、前述したように、仙台辺りで検出されている数値は日常生活をコントロールすることが必要なほどではなく、今深刻になりつつあるのは福島市で、また茨城県や千葉県の数値の方が心配だそうだ。<br />
　また、原発事故の対応として、冷却水をどんどん注水しているが、その間は放射線を含んだ蒸気は発生し続ける。これを収束させるのは難しいがドームで覆うことなども考えられるともおっしゃっていた。<br />
　その上で、次のようなグラフを示しながら説明してくださった。よく、放射線の危険性については放射線量とガンとの発生率で比較される。<br />
  １００ｍＳｖ以上の致死性ガンの発生率はわかっていて、１００ｍＳｖの被曝をした場合５％だそうだ。１００ｍＳｖ以下の低線量被爆の場合については、実験するわけにもいかないので「分からない」とされているが、Ｏ先生は「１００ｍＳｖ以上の発生確率の直線を延長（点線部分）して推量すべきだ」とおっしゃっていた。つまり、２０ｍＳｖ被爆した場合は１％と推量する。ということは、０．１μＳｖ被曝したとすれば、０．０００００５％ガンになる人が増えるだろうと推量する。これが学者の目だ。       <br />
　同行した Ｗさんが「洗濯物を外に干さない家庭が増えている」と質問したところ、Ｏ先生は「洗濯物を外に干せば放射性物質は付着します。しかし、それを取り込むときに、パッパッと払えば、相当落ちるでしょう」とおっしゃり、ご自身のエピソードを紹介してくださった。震災直後、ガソリン不足のためにしばらく自転車通勤したが、ずっと着ていた外套を身につけたまま測定室に入ったら、測定器がピーピーピーとけたたましい音を出したそうだ。ところがそれをクリーニングに出したところ、放射線量の値はでなくなったとのことだ。「洗濯するのは効果が大きいですね。それにしてもクリーニング屋さんは迷惑だったでしょう」とおっしゃっていた。<br />
　そして「繰り返すが、仙台での現在の線量の値は心配するほどではない。被曝はレントゲンを撮ってもこれ以上だし、温泉に行っても飛行機に乗っても被曝をしている。世界の中には、日本の９倍～２０倍の自然放射能を浴びながら日常生活をしている地域もある。しかし私が怒りを感じるのは、今回の被曝が、我々にとって全く必要のない被曝だからだ」と語気を強めておられた。<br />
　これまで本園では二つの伝で放射線量測定をした。その結果、それぞれの測定者から日常の生活に影響を与えるものではないというお話をいただいた。少しでも保護者の皆さんの安心につながればよいと考えている。そしてまた、子どもたちの活動や教育活動が萎縮しないように工夫していきたいものだとも考えている。<br />
　とは言え、子どもたちの被曝は少ないに越したことはない。前回お示しした対応を徹底していきたいと思うし、さらにご心配の皆さんの個別のご要望にはできるだけ相談に乗っていこうと考えている。（弁当持参、水筒持参等）<br />
　なお、仙台市は市内すべての幼稚園・学校で大気中の放射線量を測定した。めるへんでは、砂場の上５０センチメートルの場所で、０．１２μＳｖ／ｈだった。３．８μＳｖ／ｈの屋外活動制限値よりだいぶ低いと考えてよいのだろう。<br />
</p>]]>
        
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