園長室から~園だより

めるへんの森幼稚園の亀谷園長がお送りするお話集です。

園長  亀 谷 芳 彦

 このところ、日本列島は例年にない大雪と寒波に襲われている。特に日本海側の豪雪地帯では、生活への様々な影響を受けていることが伝えられているが、中でも高齢者世帯での、分厚く積もった屋根の雪下ろし作業は深刻な問題になっているようだ。
 そんな日本海側地方の深刻さに比べればまだ楽なのだろうが、太平洋側も例年よりは雪の量は多く寒さの厳しい日が続いている。おかげで、めるへんでは、今年はタイヤ階段のそり滑りもたくさんできたり、これまでにない大きさのかまくらも作れた。
 ただ今年の特徴は、特に先週の最初の大雪の後は、日中は太陽のでる晴れ間が多く、夜になると冷え込みが強くなるということの繰り返しという印象が強い。そのために、園庭の土は、朝はがちがちに凍っているが、昼過ぎには氷が溶けて田んぼ状態になる。そして夜になると冷え込んで凍った土の上に新たな雪が積もっている、そんな繰り返しの1週間であった。
 子どもたちの中には、朝登園すると、教室に入る前に、園庭の足跡にできている氷を足で割って歩くことに夢中になっている子もいる。また、放課後になると、お迎えやバスを待っている子たちが泥田状態の園庭を駆け回ったり、スコップで園庭のあちこちに穴を掘って泥コネをしている。また、水たまりにわざとジャンプをして泥水を跳ね上げ、お迎えに来ているお母さん方に悲鳴を上げさせている子も多い。
 ところで、今年は雪が多いせいか、日中溶けてできる水たまり、そしてその水の量が例年に比べると非常に多い。そのために、これまでの冬場には考えられなかったが、萱場さんを中心に園庭に水路を造って水を流すようにしている。そんな作業は、雪や氷が溶けて、園庭の土が柔らかになってからやるので、子どもたちが遊んでいる昼休みや放課後の時間と重なってしまう。子どもからすれば、目の前で大人がそんなことをしていれば興味を持たざるを得ない。早速お手伝いが始まる。お手伝いといっても、年少児あたりは、水が少々広がった湖に島を作ったり、穴を掘ったりと単純な泥遊びであるが、年長児くらいになると、一応水を流すということは意識する。
 しかし、子どもたちは、私たちがせっかく造った水路に無神経に入ってくるので、水路の底に足跡が付き、その部分が深くなることによって水の流れが悪くなったり、足で水を下流に押し出そうとするので、そこに土砂がたまって流れが止まってしまったりする。また、上流に流れを作ろうとするのだが、スコップで深く掘りすぎるために水が逆流してしまうこともしょっちゅうである。
 このように、子どもたちのお手伝いはありがた迷惑ではあるが、しかし、無造作に泥遊びをしているかのような子どもたちでも、その様子を見ていると、明らかに工夫はしている。何ヶ所かの水たまりの間をつなごうとする場合にも、水の流れを作ろうと試行錯誤する姿は見られるし、また誰かが不適切な作業で水の流れを止めてしまうと、「水が止まったじゃないか」「何でそこに土をおくの」などと、ほかの子から言われることもあり、子ども同士の葛藤も起きるし、失敗した箇所の修復をしようとする姿も生まれる。ただ好き勝手に遊んでいるような泥遊びでも、「水が流れるようにする」という子どもなりの目標を持てば、自ずと自律的で知的な活動になる。非常にささやかな場面ではあるが、子どもの成長というのは、こういったところからも生み出されるのだろう。
 作業を請け負っている私たちとしては、「こら、そこに入るな!」「そこを掘っちゃ、だめだ!」と怒鳴りたくなるが、そこはその言葉をぐっと飲み込んで、我慢するほかはない。
 しかし、ここでなぜ、子どもたちのそんな活動を「温かく見守る」のではなく、「怒鳴りたくなるのを我慢する」のかというと、園庭一面に点在する水たまりをつないで水の流れを作るのは、私にとっても楽しい創造的行為だからだ。つまり、本音を言うと、全体を見通して工夫しながらスムーズな水の流れを作ろうとする私自身の創造的活動を子どもたちにじゃまをされたという気持ちが心の片隅にはある。こうなると子どもみたいなもんだが、「我慢する」だけ大人なんだろう。水遊び、しかも流れを伴った水遊びは、高齢者である私のような者まで子どもに還す。
 泥田で、一生懸命遊んでいる子どもたちの姿を眺めながらも、教員たちは、大量にある砂場セットのものすごい汚れに、「アーァ、きれいに洗うのが大変だ」とため息をつきながらも、めるへんの園庭は、子どもたちにとって貴重な環境だと考えている。

園長  亀 谷 芳 彦
 
 私は前回、東大受験校で有名な私立灘校の名物先生、エチ先生こと橋本武先生の実践を紹介し、本当の学力を身につけるということはどんなことかということへの私見を述べた。
 私は、これら橋本先生の実践を紹介した著書に接したのを機会に、彼が教材とした中勘助の「銀の匙」を初めて読んでみた。この著作は、中勘助の自伝的小説とされ、主人公は「私」であり、私の名前は□□で表され、そして、幼少期には□坊が訛って□ぽんと自称していた。□□は何でもいい。たとえば、芳彦であれば、周りからは芳坊と呼ばれ、自分では口の回らない時期に身に付いたヨシぽんという呼び名をそのまま使っていた、ということだろう。
 この小説は、幼年期から少年期におかれた□ぽんの環境と周囲の人たちとの関係、その関わりの中での心の機微と成長の様子が鮮やかに描かれていて、一気に読み通した。
 幼児期には、育ててくれた伯母さんへの甘えや我が儘、病弱な幼児が子ども社会で受ける扱いなど、その姿を通して、その時々の気持ちや心理が描かれる。また、小学校生活のなかで経験する自信や挫折、仲間はずれにあったり、自虐的心情や淡い恋心など、少年期の心の揺れのリアリティが印象に残る。
 さらに、全編を通して主人公の幼少期、つまり明治時代の街中の風景や歳時記が情緒豊かに描写されていて、その繊細な表現は、正に輝くばかりだ。そして、幼少期から青年期にかけて、少年の成長の姿や心の機微、社会的背景や当時の風俗を描いたものとして、下村湖人の「次郎物語」にも比する作品だと感じた。
 「銀の匙」は、大正元年に新聞小説として書かれた。文庫本になったのは1935年(昭和10年)。100年間も読み継がれている名著である。
 その中で、おやっと思った文節があった。
 「それはそうと戦争が始まって以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちゃんちゃん坊主でもちきっている。それに先生までが一緒になってまるで犬でもけしかけるようになんぞといえば大和魂とちゃんちゃん坊主をくりかえす。私はそれを心から苦々しく不愉快なことに思った。~ある時また大勢がひとつところにかたまってききかじりの噂を種に凄じい戦争談に花を咲かせたときに私は彼らと反対の意見を述べて 結局日本は支那に負けるだろう といった。~」(傍点は亀谷)とある。私が「おやっ」と思ったのは、こんな表現が昭和10年の頃に認められたのだろうかという疑問が起きたのである。ここでいう戦争は日清戦争のことであるが、この文庫本が発行された昭和10年は支那事変前夜、軍国主義の風潮が日本社会に広がり始めた頃である。
 ところが、この本の後付をみると、「1999年5月17日改訂第1刷発行」とある。調査をしたわけではないので推測でしかないが、昭和10年に文庫本として発行されたときには、大正元年には載っていたこのような表現は検閲にあって削除され、1999年(平成11年)に改訂発行されたときに原文が復活したのではないかと考える。新聞に発表された大正元年は大正デモクラシー・自由主義が謳歌された時代であり、戦時色が出てきた昭和10年との表現の自由度の違いを考えたとき、その推測もあながち間違ってはいないだろう。
 昨年末、司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」がテレビで放映されていた。このドラマは、確か第1部が2年前、第2部が一昨年放映され、今回は第3部として4週にわたって放映されたのである。まさに大河ドラマだ。
 このドラマの原作である小説「坂の上の雲」は、秋山兄弟や正岡子規を主人公として、明治維新第二世代の若者たちが、新しい日本の発展に意気を持って関わっていく姿を描いたもので、戦後高度成長期に日本の経済成長を支えてきたサラリーマンたちに共感を持って読まれていた。
 今回の第3部は、日露戦争が舞台である。日本騎兵の創設者と言われる秋山好古が、勇猛なロシアのコサック騎兵を破る話や、乃木大将による二〇三高地攻略、秋山真之を参謀とする東郷元帥の日本艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破し、日露戦争を終結させるまでを描く。
 このようなドラマをそれなりに身を入れて見ていると、ついつい日本の近代化を支えてきた若き群像の活躍に共鳴し、日本軍の戦果に安堵感を持つ。しかし、小説やドラマでの戦闘場面には胸を躍らすが、実際の戦闘場面は悲惨であった。二〇三高地攻略戦も、当時は大成果として喧伝されていたが、実際には無謀な突撃の繰り返しで、何万という兵士が無為に犠牲になったという。私の母の叔父に日露戦争の生き残りがいて、幼い私も、その大叔父の持ってた勲章や襟章で遊んでいた記憶がある。そして、彼の頬には砲弾の破片で受けたという傷跡があったのを鮮明に覚えている。
 ドラマ「坂の上の雲」の最終回は、日本海海戦の戦闘が中心に描かれているが、その中で戦局とは関係のない一つの場面が挿入されていた。それは、正岡子規が逝去した後でも、子規堂には彼を慕う文人たちが集う。そこに現れた夏目漱石の台詞、
「我が輩は、大和魂に欠けておる。だから最近は、大和魂に出遭うと、道をよけている」「誰も口にしないが、誰も(大和魂を)見たものはいない。誰も聞いたことはあるが、誰も逢ったものはいない。大和魂はどんなものかと聞いたらば、大和魂だと答える。エヘンと言ってから、エヘンという声が聞こえた」
そんな漱石の言葉に対して、子規の妹律が、秋山兄弟たちが今戦っているのに、そのような物言いは残念だということを、控えめな態度で抗議をする。その場は漱石が律に謝って収まるという筋立てになっていた。
 ただ、私が昔読んだ小説「坂の上の雲」では、このような場面の記憶はない。本棚から引っ張り出してパラパラめくってみたが、探すことはできなかった。この場面が、司馬さんの他の小説の中に出ているのか、それとも脚本家の創作なのかはわからないが、ドラマの中では漱石を戦争に沸き立つ風潮や世論に違和感を持っている人物として描こうとしているのは間違いないだろう。
 漱石は正面切って戦争を批判したのではないだろうが、彼の作品「三四郎」には次のような表現がある。東京帝大に入学が決まった三四郎が九州から上京する汽車の中で、隣席の爺さんが女の身の上話を聞いている風景、
爺さんは蛸薬師も知らず、玩具にも興味がないと見えて、始めのうちは只はいはいと返事だけしていたが、旅順以後急に同情を催して、それは大いに気の毒だと云いだした。自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとう彼地で死んでしまった。一体戦争は何の為にするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない。世の好い時分には出稼ぎなどと云うものはなかった。みんな戦争の御陰だ。 また、三四郎と乗り合わせた男との会話。
「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、~」と云って又にやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃない様な気がする。「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。-熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲ぐられる。わるくすると国賊取扱いにされる。三四郎は頭の中の何処の隅にもこう云う思想を入れる余裕はないような空気の裡で成長した。
漱石が「三四郎」を著したのは、日露戦争が終わって数年後の明治41年である。このような表現に接すると、やはり漱石は、当時の戦争賛美の社会的風潮からは少し離れた位置で日露戦争を見ていたのだろう。
 「銀の匙」も「三四郎」も、明治末から大正に発表されている。日露戦争後とあって、民族主義や大和魂を謳歌する風潮はあったのだろうが、このころから大正デモクラシーに向かう機運は出てきて、表現の自由や批判的な発表も許されていた、ということだ。
 与謝野晶子が旅順港包囲軍の中にある弟を嘆いて詠んだ 「君死にたまふことなかれ」   
あゝをとうとよ、君を泣く、 君死にたまふことなかれ、 末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしへしや、 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや。

堺(さかひ)の街のあきびとの 舊家(きうか)をほこるあるじにて 親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、 旅順の城はほろぶとも、 ほろびずとても、何事ぞ、 君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、 すめらみことは、戰ひに おほみづからは出でまさね、 かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、 大みこゝろの深ければ 
もとよりいかで思(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに 君死にたまふことなかれ、 すぎにし秋を父ぎみに おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく わが子を召され、家を守(も)り、 安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻(にひづま)を、 君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる 少女ごころを思ひみよ、 この世ひとりの君ならで あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

日露戦争最中に読まれ、天皇批判まで含まれたこの詩は、当然世論からの批判は受けたが、官憲からの弾圧や法的制裁を受けたという話は聞いていない。これも、司馬遼太郎さんが言う「明治のおおらかさ」なのだろう。この明治のおおらかさから引き続く大正期には、新教育運動や児童文化も花を開かせる。
 しかし、昭和10年以降、日中戦争を経て第二次世界大戦に至る日本は、この「おおらかさ」が完全に失われていくという。これも司馬さんの史観である。  

園長  亀 谷 芳 彦

 明けましておめでとうございます。今年のお正月は暖かで穏やかな三が日を過ごすことができました。それぞれのお宅でも、充実した新年をお迎えのことと思います。
 元旦の朝、ずっしりと重い新聞を手にした。初売りの広告はさておき、いくつかの紙面を眺めて、今年は例年とは違うものを感じた。例年元旦の紙面は、それぞれの新聞社が今年1年の課題や未来の課題を特集するが、その特集の内容は、時に宇宙開発であったり、平和の問題であったり、教育や経済であったりする。ところが今年は、私が目にした3紙とも、それぞれの新聞社によって取り上げるスタイルは異なるにせよ、すべてが「原発」にかかわるエネルギー問題を取り上げていた。
 その中で、「再考 エネルギー」のテーマで、経団連会長の米倉弘昌さんと哲学者の梅原猛さんが対論の形で論陣を張っていたのが目に付いた。
 米倉さんは、「将来原発に頼らないのが理想」ということを前提にしながらも、再生可能エネルギーの不安定さや経済活動の維持、あるいは経済の成長を考えた時には当面原発の稼働は必要という立場をとる。確かに、昨年の原発事故以来、電力不足が懸念され、節電が叫ばれてきた。市民生活上、表向き何とか乗り切ったという印象はあるが、法律で節電を義務付けられた中小企業も含めた工業生産の現場は相当のダメージを受けているということも、時々報道されていた。このようなエネルギー不足から企業活動が縮小されれば、雇用問題が起こり、失業者が増えるということが起きる可能性は否定できない。そういった状況からは、米倉会長の主張もうなづける。
 一方、梅原さんは文明論として提起する。地震や津波は「天災」、原発も含め危機への対策を怠ってきたのは「人災」、そして原発の事故はエネルギーを原子力に頼るという「文明の災害」であると定義する。梅原さんは、過去何万年という人類の歴史は、「木」や「石油・石炭」という動植物を源とする自然エネルギーによって文明の発達を成し遂げてきた。しかるに、科学の発展が自然を支配することができるというデカルト以来の哲学が、人間の力を超えたエネルギーである原子力への幻想を作り上げてしまった。しかし、原子力は結果として悪魔のエネルギーであったと言う。そして、今後の在り様としては、「自然との共存」という思想にかえり、再生可能エネルギーの開発と、消費文明の見直しが必要だと主張する。これまた、大いに共感するところだ。
 一見お二人の立場は対極にあるような設定ではあるが、共通した認識を見出すことができる。米倉さんは、「将来原発に頼らないのが理想」「短期的には原発の稼働は必要だが、中長期的には再生可能エネルギーをもって置き換えることは可能」と言い、梅原さんも、「一部の人は原発容認を言っているけれど、10年、20年の対策としては必要だとしても、脱原発は歴史の必然です」と言う。つまり、梅原さんも、今日明日にでも原発をストップさせろということを言っているわけではなく、再生可能エネルギーの開発に大きな予算をつけるとともに、短期的な対応としては原発の利用はやむを得ないという立場なのだろうと考えられる。
 これまでの日本のエネルギー政策は、原子力ありきを前提に、一部の該当自治体に交付金というニンジンをぶら下げて進められてきた。そしていつの間にか、日本は世界第三位の原発大国にまでのし上がっていたのだ。このような重要な国民的課題を、小手先の手法で政策推進するのは民主主義の姿からはほど遠い。原発は、廃炉にするにしても時間がかかる。短期的、中長期的な見通しと対策は必要だと思う。そして何より、今後日本国民が拠って立つ哲学をどう確立するかということが大事である。それによって、国民の生活意識や生活スタイルも変わっていくのだから。
 今年こそ、いたずらに対立と無策に時間を費やすことなく、全国民の、なかんずく子どもたちの安全安心な生活が保証される社会の建設を目指すスタートの年になることを期待したい。

園長  亀 谷 芳 彦
 
 最近出版された3冊の教育関係書を読んだ。一つは「奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち(伊藤氏貴著)」というタイトルで、もう一冊は「灘中奇跡の国語教室 橋本武の超スロー・リーディング(黒岩祐治著)」。両著とも東大受験校で有名な神戸の灘校の名物国語教師橋本武先生について、先生の授業について書いている。なお、後者の著者は、現神奈川県知事黒岩祐治氏である。そしてもう一冊が「灘校・伝説の国語授業」で、橋本先生が自ら著したものである。
 橋本先生は1912年生まれとあるので、現在99歳におなりになる。21歳で、新設旧制灘中学校に赴任し、戦前・戦中・戦後と50年間教鞭を執られた。創立された頃は、神戸一中(野坂昭如「火垂の墓」の主人公清太が在籍した学校)の滑り止め的な私立学校であった灘校は、戦後、中高一貫校になり、東大合格者日本一を達成し、今や誰でも知る名門校になっている。その立役者になったのが橋本武先生だという。
 有名受験校に対する我々のイメージは、授業は受験対策に特化して、詰め込み教育とそれに耐え得る精神主義的な努力を求めているというものだが、橋本先生の授業は、そんなイメージとは全くかけ離れている。
 灘校のシステムでは、一つの学年をそれぞれの教科の教師が6年間受け持つのだそうだ。つまり生徒たちは入学すると、中学1年から高校3年まで、それぞれの教科を受け持つ担任団によって6年間指導を受けることになる。
 そのようなシステムの中で、橋本先生は教科書を一切使わず、『銀の匙』という200ページ程度の岩波文庫を教材として、中1から中3までの3年間読み込む。
 『銀の匙』は、作家・中 勘助によって、明治時代に書かれた自伝的小説であるが、病弱な幼少期を過ごした主人公の心の葛藤や、当時の風俗や情景が繊細な表現力で描かれている。
 橋本先生の授業は、読解したり暗記したりするだけではない。先生自ら「スローリーディング」とおっしゃるように、一冊の小説をあらゆる角度から読み込んでいく。先生は、自らの授業の指針として、①寄り道をする ②追体験をする ③徹底的に調べる ④自分で考える を挙げる。
私は毎朝はやく起こされて草ぼうぼうとしたあき地を跣で歩かされる。ぺんぺん草や、蚊帳つり草や、そこにはえてる草の名をおぼえるだけでも大変な仕事である。(「銀の匙」)といった文章に出逢うと、その中の「ぺんぺん草」という言葉を取り上げ、「ぺんぺん草はナズナの別称である」ことから始まり、春の七草や秋の七草に関わる風習や、百人一首の光孝天皇の歌「君がため 春の野に出でて若葉つむ わが衣手に雪は降りつつ」にまで話は発展していく。
 このように、エチ先生の話は文庫本のなかの言葉一つから横道にそれていき、日本の伝奇伝承からアラビアンナイトまで、詩の宇宙から中国の兵法の話まで、『銀の匙』から自由に行き来する世界を、彼ら(生徒達)は楽しいと感じ始めていた。(「奇跡の教室」)そのために1ページ進むのに、2週間もかかることがよくあったのだそうだ。
 他にも、伯母さんはまた百人一首の歌をすっかりそらんじていて、床にはいってから一流のものさびしい節をつけて一晩に一首二首と根気よくおぼえさせた。伯母さんが、「たちわかれ」という。私が「たちわかれ」とあとをつく。(「銀の匙」)という一節になると、生徒たちは百人一首を暗記させられ、クラスをあげての百人一首大会に発展する。
 このような脱線をしながら3年間をかけて一冊の本を読み解くのだが、橋本先生は、「追体験することが大事だ」という。例えば、凧揚げの場面が出てくると、美術の教師に頼んで、美術の時間に凧作りをして、国語の時間に凧揚げ大会をしたり、下町の駄菓子屋の描写があれば、先生は駄菓子を買ってきて授業中に生徒たちに食べさせる。つまり、一つの場面が出てくると、その言葉や情景を追体験させることによって興味を持ち、課題意識を広げ、自分たちで調べていく、という環境作りに努めるのだ。
 さらに、『銀の匙』は新聞小説であったために、一日に掲載される章が短く全て番号がふってあるだけということを利用して、生徒達に各章のタイトルを考えさせる。
 また、私の生れるときには母は殊のほかの難産で、そのころ名うてのとりあげ婆さんにも見はなされて東桂さんという漢方の先生にきてもらったが、私は東桂さんの煎薬ぐらいではいっかな生れるけしきがなかったのみか気の短い父が癇癪をおこして噛みつくようにいうもので、東桂さんはほとほと当惑して漢方の本をあっちこっち読んできかせては調剤のまちがいのないことを弁じながらひたすら潮時をまっていた。そのようにさんざ母を悩ましたあげくやっとのことで生れたが、そのとき困りはてた東桂さんが指に唾をつけて一枚一枚本をくっては薬箱から薬をしゃくいだす様子は私を育ててくれた剽軽な伯母さんの真にせまった身ぶりにのこっていつまでも厭かれることのない笑いぐさとなった。(「銀の匙」)という一節に出遭うと、先生は生徒達に、自分が生まれたときの様子を、聞いて文章にまとめてみましょう。母のこと。父のこと。家族のこと。できるだけ詳しく聞いてください。(「奇跡の国語教室」)という課題を与える。このような課題によって、生徒達は本気になって読み込んだり、考えながら書くということに取り組むことになる。
 勿論このような授業ができるということは、先生ご自身による『銀の匙』の十分な読み込みと徹底した教材研究があったことはいうまでもない。先生は毎時間、大事なポイントや課題を示したガリ版刷りの大量のプリントを渡し、そこに書き込ませながら授業を進めた。このプリントを綴じ込んだのが「銀の匙研究ノート」で、黒岩氏は今でも大事にとってあるとのことである。
 灘校の授業は、橋本先生の国語に限らず、ほとんどの教科で教科書や受験参考書に頼らず進められたという。
英語の故・俵倫一先生も忘れられない。英文法、英文解釈、英作文といった受験用の訓練はほとんどなされず、英語の小説を原書で読破していくという授業だった。(「奇跡の教室」)
 つまり、受験用の内容を詰め込み勉強するのではなく、自由な雰囲気の中で、生徒たちが自分で興味を持ち自分でやっていくことによって身に付くもの、そのような学力が、名もない一介の私立学校であった灘校を、東大・京大入学者数第一位の進学校に発展せしめたのだ。
 このような橋本先生や灘校の先生方の取り組みに接すると、「本当の学力」とは何なのかということを考えさせられる。
 橋本先生は、私は、「遊ぶ」ように「学ぶ」姿勢を、子供たちに伝えたいと思っていましたが、それは私が99歳まで実践してきたことなのかもしれません。遊ぶように学ぶことは、人生で最高の喜びです。~遊ぶように学ぶことの最大のポイントは、自ら参加すること。(「伝説の国語授業」)とおっしゃる。
 私は、このような橋本先生の考え方こそ、20年近く小中高で行われていることになっている「総合学習」や「生活科」の本来の考え方であり、橋本先生の授業に臨む姿や方法は、それが教科指導にまで発展した姿であると考える。
 橋本先生は「国語はすべての教科の基本です。"学ぶ力の背骨"なんです」と主張し、さらにその意味を「受験勉強は、記憶一点張りの単なるツメコミでまかなえるものではないのです。観察力、判断力、推理力、総合力などの結集がものをいいます。その土台になるのが、国語力だと思います」とおっしゃる。そして先生は、「銀の匙」を教材に選び、このような授業をした理由について「ふつうに読むだけでは、なあんにも残りませんからねえ。自分が中学生のときに国語で何を読んだかおぼえていますか? 自分が教師になったときに自問自答して、愕然としたんですよ。何もおぼえてないって。先生に対する親しみはあっても、授業そのものに対しての印象はゼロに近い。~生徒に後々まで残るように教えられるものはないだろうか。子どもたちのそれからの生活の糧になるようなテキストで授業がしたい、そう思ったのです。」そして「押しつけじゃなくて、生徒が自分から興味を起こして入り込んでいくためには、"主人公になりきって読んでいくこと"がまず必要だと思っていました。そのうえで、物語や出てくる言葉から派生することもひっくるめて、生徒に本当の国語の力を、じっくりつけられる教材はないだろうかって、ずうっと考えてましたね。」と続ける。このような橋本先生の言葉は、幼小中高の校種を問わず教師の資質・姿勢として学ばなければならないのであろう。
 橋本先生のこのような考え方には、私も大いに共感する。めるへんでの童話や童謡、読み聞かせ、そして「劇遊び」等を通して、ファンタジックな想像力を膨らませ、語彙を豊かにしようとする取り組みは、以上のような橋本先生の考えに通じるものであり、その後の学力の基礎作りに通じると信じている。
 橋本先生は、生徒達に向かってさらに話しかける。
「すぐ役立つことは、すぐに役立たなくなります。そういうことを私は教えようとは思っていません。なんでもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分を掘り下げて欲しい。私の授業では、君たちがそのヒントを見つけてくれればいい。~そうやって自分で見つけたことは、君たちの一生の財産になります」(「奇跡の教室」)
 「奇跡の教室」の副題にもあるように、橋本先生は「エチ先生」と呼ばれる。若い教師時代、髪型と顔の輪郭が当時のエチオピア皇太子に似ていたことから、生徒たちが奉ったあだ名だそうだ。先生は「伝説の国語授業」の他にも、90歳を過ぎてから「源氏物語」の現代語訳に取り組み、出版されている。先生の若さとエネルギーを支えているものは、「宝塚歌劇団」通いとおしゃれだそうだ。写真に写る先生の姿は、とてもダンディだ。

園長  亀 谷 芳 彦

 またまた、母親パワーについて。
 先般、PTAの広報委員会から「こだま」が発行された。広報委員会の「こだま」は、毎年その時その時にあったテーマを決めて編集されている。私が直ちに頭に浮かぶだけでも、地域のグルメ情報を集めた年もあったし、地域の文化施設や史跡、医療施設の情報、また子育て情報などを特集したこともある。例年、そのための企画、取材、編集そして印刷・綴じ込みの作業と、委員さんたちのご苦労も多かったことと思う。それだけに、「こだま」が出来上がった時には、皆さんの充実感もさぞかしと、いつも感じ入っている。
 今年のテーマは「防災特集号」であった。水の備蓄と少ない水の効果的使用法。また緊急時における食材と調理の仕方。ガスの供給がストップした場合の食用油を使ったコンロの作り方も載っている。これなどは、広報委員の方々が実際に作って実験までしたというのだから、記事の信憑性は非常に高い。また停電時に役立つものも紹介されているが、電池を含め、役に立つグッズを常に用意しておくことが大事だということを実感させられる。以上のように、「防災」といっても、災害を防ぐためのノウハウというよりも、災害が起きた場合の日頃の準備ということが中心になっている。ライフラインが壊滅し、生活物資の入手に苦労した東日本大震災を経験したが故の編集なのだろう。
 今回の「こだま」の素晴らしさは、災害時対応ノウハウ本を引き写してきたのではなく、前述したが、それを委員さんたちが自ら実験し確認した上で取り上げたり、また、PTA会員全員からのアンケートをもとに、日頃の意識の持ち方や問題点を明らかにしていることだ。
 広報委員さんから、「参考になるでしょうから、園長先生も見てください」と、皆さんが提出したアンケート用紙を渡された。拝見すると、皆さんの震災を経験しての感じたこと、考えたことが素直な言葉で綴られており、皆さんがこのアンケートに真剣に向き合っているということが伝わってくる。
 まず多いのは、突然の災害への備えの必要を実感したご意見だ。大地震が高い確率でくるということは、だいぶ前から専門家たちによって言われてきていたが、実際に経験するまでは実感がなく、十分な備えをしていた人は少なかっただろう。
 ちなみに我が家の状況は、乾電池の備えはなかったが、仏壇にあったろうそくで電気が通るまでの数日を過ごした。また、石油ストーブ(ファンヒーターではない)とカセットコンロが熱源。水は幸いにも町内の集会所のある地域が断水しなかったので、そこで汲むことができた。
 次に多いのは、電気・水道・ガス・ガソリンなどのライフラインに関する不便さについてだが、これらに対する備えといっても、乾電池や充電装置などがあればよかったということしかなく、システムの復旧は我々ではどうしようもない。ただ、「人間、無ければ無いなりの生活ができるんだなあと実感。普段、どのくらいムダが多かったか認識できた」というご意見や「最初は、色々なことで困ったけれど、長期化するほどアイデアを出し合ってがんばれました」といった人々の強さも現れたように思う。事実、この夏には電力不足が強調されたが、企業のみならず、各家庭にまで節電の意識が広がり、結果として電力不足を乗り越えることができたのも、日本人の強さの現れだと思っている。
 ただ、今回のライフラインの壊滅という状況を体験し、システム化された合理性の中で生活することの危うさを改めて感じた。「太陽光発電が欲しかった」というご意見にもみられるように、基礎的生活(エネルギー・水・電気等)システムの複合化は必要だろうと思う。水道が100パーセント普及せず井戸も併用されていた時代には、このような問題はさほど深刻にならなかっただろうし、エネルギーについても、都市ガスだけではなくプロパンガスや石油さらには薪炭等にも対応できる準備があればよいのかもしれない。
 30年前の宮城沖地震の時、我が家ではプロパンガスの風呂であったために、毎日風呂を沸かし、ご近所にもお分けすることもできたし、今回も、親戚が石油風呂であったために、比較的風呂には不自由することなく過ごせた。
 いずれにせよ、現代のようにシステム化された社会は、そのシステムの一ヶ所にでも不具合が生まれると総てがダウンするという危うさを抱えているということだ。
 さらに皆さんのコメントの中で多いのは、「人のつながり」ということだ。生活物資が乏しくなっているところに、友だちや親戚から励ましの言葉や物資を送ってもらった時には何ともいえないうれしさを感じた。特に、ご近所同士が助け合ったり、譲り合ったりした経験を持った方々は、地域の連携や日頃の絆を強めておくことの大切さを実感したことだろう。
 わずかな生活物資を求めて、スーパーで長時間並んだり、首都圏の帰宅難民が秩序正しく電車を待っている映像は、外国のメディアをして「なぜ暴動が起きないのだろう」「非常時においても、節度を持って行動できる日本人」という驚きを持って報道された。これも日本人の民度の高さの表れであろうと思う。
 しかし一方で、「配給並びで、発達障害のお子さんがパニックに陥っている状態なのに、『親の育て方が悪い』とか、『帰れ』とか言う住民もいた」ことを目撃し、悲しい思いをされた方もいたようだ。日本人の一般的な社会的民度の高さと、一部とはいえ個々人の教養の定着とではギャップがあるのも事実だろう。いずれにせよ、様々なハンディを持った弱者が、地域の中でどう理解され受け入れられているかは、社会的民度を計る指標の一つであることは間違いない。
 また、このような大災害に直面したとき、もっとも不安を感じるのは、通信の手段がなくなり家族の安否が確認できないことだ。そういうことから「家族の非常時の連絡の取り方を決めておくこととその訓練をしておくことが大事」であることを実感した方も多い。中でも、幼稚園から戻っていない我が子の安否への不安が大きいのは当然だが、幼稚園としては「ご家庭と連絡が取れない」状況にあっては、「子どもたちの安全を確保しながら、ひたすらお迎えを待つ」ことにつきる。
 今回のアンケートでは放射線については、設問がなかったせいか散発的なご意見があっただけだが、もし設問があれば様々なご意見がみられたのだろう。その中で「政府への不信」を指摘した意見もあったが、私は信頼感を得るということは、いかに情報を開示するかにかかっているし、そのことが民主主義の基盤の最も大事なことと考えている。その点、今回の原発事故では、情報が小出しにされたことが国民の不信感につながったように思う。
 そのことを我が身に振り返れば幼稚園においても同じだ。幼稚園に不都合な情報を隠したり意図的に小出しにすれば、保護者の皆さんの信頼感はたちまちに失ってしまうだろう。放射線については幸い5月の時期に比べれば、相当レベルが下がったと考えているが、なんだかの変化があった場合には直ちに保護者の皆さんにお知らせするつもりでいる。
 今回の「こだま」は震災後、時間の経過とともに緊張感が薄れていく我々に、再度震災を思い起こさせ、対策への緊張感を持ち続けることの必要性を喚起してくれた。広報委員会の皆さんがこのようなテーマで企画した慧眼とその編集力に改めて敬意を表したい。

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