園長 亀 谷 芳 彦
私は前回、東大受験校で有名な私立灘校の名物先生、エチ先生こと橋本武先生の実践を紹介し、本当の学力を身につけるということはどんなことかということへの私見を述べた。
私は、これら橋本先生の実践を紹介した著書に接したのを機会に、彼が教材とした中勘助の「銀の匙」を初めて読んでみた。この著作は、中勘助の自伝的小説とされ、主人公は「私」であり、私の名前は□□で表され、そして、幼少期には□坊が訛って□ぽんと自称していた。□□は何でもいい。たとえば、芳彦であれば、周りからは芳坊と呼ばれ、自分では口の回らない時期に身に付いたヨシぽんという呼び名をそのまま使っていた、ということだろう。
この小説は、幼年期から少年期におかれた□ぽんの環境と周囲の人たちとの関係、その関わりの中での心の機微と成長の様子が鮮やかに描かれていて、一気に読み通した。
幼児期には、育ててくれた伯母さんへの甘えや我が儘、病弱な幼児が子ども社会で受ける扱いなど、その姿を通して、その時々の気持ちや心理が描かれる。また、小学校生活のなかで経験する自信や挫折、仲間はずれにあったり、自虐的心情や淡い恋心など、少年期の心の揺れのリアリティが印象に残る。
さらに、全編を通して主人公の幼少期、つまり明治時代の街中の風景や歳時記が情緒豊かに描写されていて、その繊細な表現は、正に輝くばかりだ。そして、幼少期から青年期にかけて、少年の成長の姿や心の機微、社会的背景や当時の風俗を描いたものとして、下村湖人の「次郎物語」にも比する作品だと感じた。
「銀の匙」は、大正元年に新聞小説として書かれた。文庫本になったのは1935年(昭和10年)。100年間も読み継がれている名著である。
その中で、おやっと思った文節があった。
「それはそうと戦争が始まって以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちゃんちゃん坊主でもちきっている。それに先生までが一緒になってまるで犬でもけしかけるようになんぞといえば大和魂とちゃんちゃん坊主をくりかえす。私はそれを心から苦々しく不愉快なことに思った。~ある時また大勢がひとつところにかたまってききかじりの噂を種に凄じい戦争談に花を咲かせたときに私は彼らと反対の意見を述べて 結局日本は支那に負けるだろう といった。~」(傍点は亀谷)とある。私が「おやっ」と思ったのは、こんな表現が昭和10年の頃に認められたのだろうかという疑問が起きたのである。ここでいう戦争は日清戦争のことであるが、この文庫本が発行された昭和10年は支那事変前夜、軍国主義の風潮が日本社会に広がり始めた頃である。
ところが、この本の後付をみると、「1999年5月17日改訂第1刷発行」とある。調査をしたわけではないので推測でしかないが、昭和10年に文庫本として発行されたときには、大正元年には載っていたこのような表現は検閲にあって削除され、1999年(平成11年)に改訂発行されたときに原文が復活したのではないかと考える。新聞に発表された大正元年は大正デモクラシー・自由主義が謳歌された時代であり、戦時色が出てきた昭和10年との表現の自由度の違いを考えたとき、その推測もあながち間違ってはいないだろう。
昨年末、司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」がテレビで放映されていた。このドラマは、確か第1部が2年前、第2部が一昨年放映され、今回は第3部として4週にわたって放映されたのである。まさに大河ドラマだ。
このドラマの原作である小説「坂の上の雲」は、秋山兄弟や正岡子規を主人公として、明治維新第二世代の若者たちが、新しい日本の発展に意気を持って関わっていく姿を描いたもので、戦後高度成長期に日本の経済成長を支えてきたサラリーマンたちに共感を持って読まれていた。
今回の第3部は、日露戦争が舞台である。日本騎兵の創設者と言われる秋山好古が、勇猛なロシアのコサック騎兵を破る話や、乃木大将による二〇三高地攻略、秋山真之を参謀とする東郷元帥の日本艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破し、日露戦争を終結させるまでを描く。
このようなドラマをそれなりに身を入れて見ていると、ついつい日本の近代化を支えてきた若き群像の活躍に共鳴し、日本軍の戦果に安堵感を持つ。しかし、小説やドラマでの戦闘場面には胸を躍らすが、実際の戦闘場面は悲惨であった。二〇三高地攻略戦も、当時は大成果として喧伝されていたが、実際には無謀な突撃の繰り返しで、何万という兵士が無為に犠牲になったという。私の母の叔父に日露戦争の生き残りがいて、幼い私も、その大叔父の持ってた勲章や襟章で遊んでいた記憶がある。そして、彼の頬には砲弾の破片で受けたという傷跡があったのを鮮明に覚えている。
ドラマ「坂の上の雲」の最終回は、日本海海戦の戦闘が中心に描かれているが、その中で戦局とは関係のない一つの場面が挿入されていた。それは、正岡子規が逝去した後でも、子規堂には彼を慕う文人たちが集う。そこに現れた夏目漱石の台詞、
「我が輩は、大和魂に欠けておる。だから最近は、大和魂に出遭うと、道をよけている」「誰も口にしないが、誰も(大和魂を)見たものはいない。誰も聞いたことはあるが、誰も逢ったものはいない。大和魂はどんなものかと聞いたらば、大和魂だと答える。エヘンと言ってから、エヘンという声が聞こえた」
そんな漱石の言葉に対して、子規の妹律が、秋山兄弟たちが今戦っているのに、そのような物言いは残念だということを、控えめな態度で抗議をする。その場は漱石が律に謝って収まるという筋立てになっていた。
ただ、私が昔読んだ小説「坂の上の雲」では、このような場面の記憶はない。本棚から引っ張り出してパラパラめくってみたが、探すことはできなかった。この場面が、司馬さんの他の小説の中に出ているのか、それとも脚本家の創作なのかはわからないが、ドラマの中では漱石を戦争に沸き立つ風潮や世論に違和感を持っている人物として描こうとしているのは間違いないだろう。
漱石は正面切って戦争を批判したのではないだろうが、彼の作品「三四郎」には次のような表現がある。東京帝大に入学が決まった三四郎が九州から上京する汽車の中で、隣席の爺さんが女の身の上話を聞いている風景、
爺さんは蛸薬師も知らず、玩具にも興味がないと見えて、始めのうちは只はいはいと返事だけしていたが、旅順以後急に同情を催して、それは大いに気の毒だと云いだした。自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとう彼地で死んでしまった。一体戦争は何の為にするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない。世の好い時分には出稼ぎなどと云うものはなかった。みんな戦争の御陰だ。 また、三四郎と乗り合わせた男との会話。
「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、~」と云って又にやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃない様な気がする。「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。-熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲ぐられる。わるくすると国賊取扱いにされる。三四郎は頭の中の何処の隅にもこう云う思想を入れる余裕はないような空気の裡で成長した。
漱石が「三四郎」を著したのは、日露戦争が終わって数年後の明治41年である。このような表現に接すると、やはり漱石は、当時の戦争賛美の社会的風潮からは少し離れた位置で日露戦争を見ていたのだろう。
「銀の匙」も「三四郎」も、明治末から大正に発表されている。日露戦争後とあって、民族主義や大和魂を謳歌する風潮はあったのだろうが、このころから大正デモクラシーに向かう機運は出てきて、表現の自由や批判的な発表も許されていた、ということだ。
与謝野晶子が旅順港包囲軍の中にある弟を嘆いて詠んだ 「君死にたまふことなかれ」
あゝをとうとよ、君を泣く、 君死にたまふことなかれ、 末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしへしや、 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや。
堺(さかひ)の街のあきびとの 舊家(きうか)をほこるあるじにて 親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、 旅順の城はほろぶとも、 ほろびずとても、何事ぞ、 君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。
君死にたまふことなかれ、 すめらみことは、戰ひに おほみづからは出でまさね、 かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、 大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。
あゝをとうとよ、戰ひに 君死にたまふことなかれ、 すぎにし秋を父ぎみに おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく わが子を召され、家を守(も)り、 安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻(にひづま)を、 君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる 少女ごころを思ひみよ、 この世ひとりの君ならで あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。
日露戦争最中に読まれ、天皇批判まで含まれたこの詩は、当然世論からの批判は受けたが、官憲からの弾圧や法的制裁を受けたという話は聞いていない。これも、司馬遼太郎さんが言う「明治のおおらかさ」なのだろう。この明治のおおらかさから引き続く大正期には、新教育運動や児童文化も花を開かせる。
しかし、昭和10年以降、日中戦争を経て第二次世界大戦に至る日本は、この「おおらかさ」が完全に失われていくという。これも司馬さんの史観である。